Google

 


間違った帝王学-児孫の為に美田を買うな!(3)
〜無階級社会の欠点


5.間違った帝王学〜無階級社会の欠点

 成り上がりという言葉がある。1代で財をなした者に多少のやっかみを込めて使われるが、財は1代で成すことができても、1代ではどうしても成せぬものがある。それは品格である。品格は3代続いて初めて身に付くと言われている。
 言い方を変えれば、3代続かなければ品格は身に付かないのだ。そこをよく理解していない経営者が多い。ダメ息子が増えるはずである。

 明治維新後、日本は近代資本主義の道をひた走ってきた。しかし、それは文化抜きの資本主義、いわば資本主義の表面的なマニュアルを都合よく導入しただけだった。文化も精神も置き去りにして。
 これが欧米の資本主義と日本の資本主義の決定的な違いであり、それは帝王学の違いとなっても現れている。
 欧州には階級制度があり、上流階級が上流階級でいられるためにはマナーを守ることが厳格に求められている。思うにそれは宗教と密接に結び付いているようだが、上流階級の人間はその階級に相応しい徳と教養を身に付けなければならず、この点は厳しく教育される。
 具体的に言えばボランティア活動への従事と慈善活動である。前者は社会との関わりを、後者は富の分配の必要性を教えている。こうした経験を子供の頃から積んでいくから、あまり変な人間が社会であれ経営であれ中枢に位置することが少ない。もちろん、いつの時代、どの社会でも例外はある。だが、例外を少なくするシステムが社会にあるかどうかの違いは大きい。

 対して日本は明治維新後、欧米化を急速に進めたが、階級制度は導入しなかった。これは日本の優れたところだが、制度だけでなく守るべき文化も一緒に導入しなかった。だから日本の経営者は成り上がっても社会貢献は二の次だ。せいぜい額に入れた「理念」で、我々は経済活動を通じて社会に貢献とする、と謳うか、会社の周辺の清掃程度以外には。

 親がこれだから息子は追って知るべしで、ボランティア活動も慈善活動にも興味を示さず、興味を示すのは自分が好きな世界だけ。結果、品格のかけらもない後継者が出来上がる。間違った帝王学の「成果」だから、責任の半分は親にあるだろう。

 12月13日、大王製紙・井川意高前会長の使い込みが150億円に上るという新たなニュースが入ってきた。50億円近くも増えている。父である高雄元顧問が、我々一族には関係ない、というようなことを言っていたがとんでもない。大ありだ。帝王学を間違って肝心な精神を教えなかったのだからその責めは負わなければならない。
 それでもまだ意高氏はアナログ人間だったから助かった。子会社に電話して余剰資金の範囲内で金を振り込ませていたからだ。
 いまはオンライン時代。電話をする代わりにPCの操作一つで資金を右から左に移せる。彼がPCに精通しているか、身近にPCを扱える人間、大抵は経理担当者だが、あるいはシステム会社の人間と懇意になり、その会社の言うなりにシステムを導入していれば、借入額は150億円程度で済まなかっただろう。
 額の大小はあれ、中小企業でも同じ構図があちこちで見受けられる。知らぬは親ばかりなりか。

 児孫のために美田を買わず、と言ったのは西郷隆盛である。
美田を残そうとするから、児孫が道を誤る。美田は要らない。美田を残す必要はない。残さなければならないのは物や形ではなく、精神だ。
愛すべくは社員であり、身内ではない。
厳しい目を向けるべきは息子と、息子の社内外の取り巻き連中だ。
経営と資本はいますぐ分離せよ。
そうすれば身内の不祥事は防げる。会社を守ることができる。
                                                 (前に戻る)


(著作権法に基づき、一切の無断引用・転載を禁止します)

トップページに戻る 栗野的視点INDEXに戻る