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男も女も顔が重要。


 男も女も顔だ、というのが私の持論である。
といっても顔の作りのことを言っているのではない。
例えば「味のある顔」とか「品がある顔」、「性悪そうな顔」「のほほんとした顔」と言うように、顔は内面を映す鏡であり、その人の人生が表れるものである。

 昔は20歳過ぎたら自分の顔に責任を持てと言われた。
だが、いまの20歳はとても自分の顔に責任を持てるような歳ではない。
では、いつ頃から自分の顔に責任を持たなければならないのか。
大雑把に言って女性は30歳から、男性は35歳ぐらいからではないだろうか。

 男性と女性では顔に表れるものが多少違うようだ。
女性は生活態度がよく表れるように思うし、男性は仕事面のように思える。
特に女性の場合は生活の乱れが肌に出るだけに、いまどのような生活を送っているかすぐ分かる。
 といっても、昨日の生活が今日表れるわけではなく、20代の過ごし方が30代になって表れ、30代をどのように過ごしたかで40代の顔が決まるというわけだ。
その歳になって慌てても遅いので、40代で輝く人はその前の30代を有意義に過ごしている人である。
20代を遊んで暮らしておいて30代になってから慌てても、それは遅いというわけだ。

 私は取材相手を顔で選んでいる、と言うと多少言い過ぎだが、少しはそのようなところがある。
 同じ取材するなら、その人が最も輝いている時に会いたいし、会いたいと思わない時に会うより、会ってみたいと思える時に会いたいからだ。
いわば、その人が旬の時に会いたい。
旬とは大体、事業がうまく行っている時が多いが、必ずしもそうとも限らない。
それよりは無理をせず、ある意味自然体に近い時の方が旬ではないかと思っている。
その人の中で自分自身に折り合いが付いている時、そんな時が自然体で、人生の旬ではないかと思う。

 がむしゃらに頑張っている時のようなギラギラしたものには欠けるが、力で押さなくても事が思うように運ぶ。
そんな円熟味が出始める時がある。
私はそんな時の相手に魅力を感じる。
ジャーナリストという職業柄から言えば、本当はもっとギラギラしている相手に興味を感じなければならないのだろうが。

 ある時、以前から興味を持っていた経営者に会いたいと思った。
成長企業でマスコミ各紙にもよく登場していたが、その頃はさほど興味がなかった。
理由は顔である。
顔が経営者と言うよりはやり手の営業マンという顔をしていたからだ。
それから10年近くたち、ある時新聞記事の写真を見て、いま会いたいと思い取材を申し込んだことがある。
 決め手はやはり顔だった。
以前のやり手の営業マンから経営者の顔になっていたのだ。

 もちろん顔だけで判断しているわけではない。
その会社に関するデータは10年近くスクラップしていたし、業績や評判等も含め判断したのは言うまでもない。
だが、何度も言うが決め手になったのは本人の顔だった。
 正確に言うと写真に写った顔である。
昔の人が写真に撮られると魂を抜かれると恐れたという話があるが、あながち間違っているわけではないと思っている。
なぜなら、写真はその人の内面まで写し取るからだ。

 ともあれ、それまではいくら社員教育に力を入れているという記事やコメントを目にしても、文字通りには信じてなかった。
そんなことはないだろう。歩合制の給与と営業数字で社員の尻を叩いているに違いないと思っていたからだ。
写真の顔がそのことを物語っていた。
それがある時、実にいい顔で写っていたのだ。
それもポートレートではなく、社内のある光景を写した写真だった。
取材した結果は間違いなかった。

 逆にパッと見にはいい顔なんだが、よく見ると要注意という顔もある。
口元がゆがんだ顔、喋る時に口元がゆがむ顔だ。
男で言えば修羅場をくぐってきたというか、言葉を字義通りには信じられない。
そんな気にさせる顔である。
個人主義、利己主義、わがまま、腹に一物ありそうな顔など色々あるが、会っている時はその時の雰囲気やこちらの感情も入るから正確に読み取れないこともある。
だから私は写真に写すようにしている。

 女性でも会食をしている時は意気投合したり、いい女だなと思っても、後で写真を見るとそれ程でもなかったという経験の1つや2つは誰しもしたことがあるだろう。
あれと同じである。
 ともあれ「いい顔」になるように日々気を付けたいものだ。


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