横行する言葉狩り
最近、日本人は寛容の精神を忘れたように見える。
寛容さがなくなると社会がギスギスしてくる。
ギスギスすれば息苦しくなり、住みにくくもなる。
住みにくさがこうじると国外へ脱出したくなる。
そう考え、脱出計画を実施に移しかけたが、結局、半歩踏み出しただけで着地するまでには至らなかった。
あれから10年。この国はますます寛容さを失い、誰も彼もが針小棒大、枝葉のことを幹の様に言い、言葉尻を捉えて他人を攻め立てる。背景にあるのは無責任体質。口々に囃したてるだけ囃したて、あとは知らん顔。その先頭に立っているのが大手マスメディアだから、タチが悪い。なかでも最近の若い記者達は礼儀を知らないのか、それとも自らを特権階級と思い違いをしているのか、まるで鬱憤晴らしのように、口汚く攻め立てる。
これではたまったものではない。結局、鉢呂吉雄氏は経済産業大臣をわずか10日で辞任した。
しかし、本当に辞任に値するような大問題だったのか。
鉢呂氏は野田佳彦首相らとともに東北被災地の視察に訪れ、東京電力福島第一原発の周辺市町村について「市街地は人っ子一人いない、まさに死の街という形だった」と発言したことを問題視された。「死の街」、英語では「ゴーストタウン」だ。事実、海外ニュースは鉢呂氏の発言を「ghost town」と報じている。
ゴーストタウンという言葉は寂れてしまった旧市街地などを形容する場合などに、ごく普通に使われている。「ゴーストタウン」という表現ならよかったのか、それとも「ゴーストタウン」も「死の街」もよくないのか。
この発言を問題視するマスメディアの人達は「被災者の心情を理解していない」と非難(批判ではない)する。
しかし、上記発言をよく見れば分かるが「(もう住むことができない)死の街になっている」と言っているわけではない。「まさに死の街という形だった」と表現しているわけで、これは事実の形容である。「ゴーストタウン化していた」というのと同じ表現である。しかも、この言葉の前に「市街地は人っ子一人いない」という言葉を付け、「まさに」と次に例えを入れたわけだ。
この言葉のどこが問題になるのか。というより、問題にする方がおかしいと思うが。
では、鉢呂氏のもう一つの発言。「放射能をくっつけちゃうぞ」と言って、記者に服を擦りつける仕草をしたと言われている部分はどうなのか。
この部分に関して鉢呂氏が正確にどう言ったのかは分かっていない。というのは各紙で表現が違うからだ。
これはちょっとおかしなことだ。その場にいた記者連中の事実認識があやふやなのだ。ただ、なんとなくそういう「表現」をし、そのような「行動」をしたようだ、という程度にしか認識されていない。刑事事件などの場合なら、証言の信憑性が問われるところだ。
にもかかわらず、大問題だ、とされた。「誤解を生む」「被災者の心情を理解していない」と。
どのような「誤解を生む」のか。視察した範囲の放射線レベルは随分下がっており、人体に影響を与えるものではないのに、さも影響を与えるかのような誤解を生む「動作」だということらしい。らしいと書いたのは、誰もそれが問題だと指摘していないからで、どうもそういうことのようだと解釈したからである。
この2つの発言でおかしいのは、最初に「死の街」発言を問題視したのはマスメディアの記者達ではなく、野田首相だったということだ。鉢呂氏の会見を聞いた野田首相が「死の街」表現は「不穏当な発言だ。謝罪して訂正して欲しい」と語り、同日夕に発言を撤回し、謝罪。
「放射能くっつけちゃうぞ」発言はフジテレビが鉢呂氏の失言関連ニュースを報じた最後に「防災服の袖を取材記者の服になすりつけ『放射能を分けてやるよ』などと話している姿が目撃されている」(朝日新聞記事)と伝えたのが最初のようだ。
要は上記2つの発言はその場に居合わせた記者達も問題にしていなかった(この段階では寛容の精神が働いた)が、首相の発言が伝えられ、マスメディア1社が報道した途端、他社も負けてはいけないと報道を始め、そこから先は各社こぞって鉢呂発言叩きを始め、それがエスカレートし、辞任を迫る(ような)報道(寛容の精神は完全に失われている)へと怒涛のように流れて行った。
野田首相にしてからがおかしい。すでに指摘したようにこの程度(「死の街」表現)のことは謝罪するような問題ではない。昔の自民党政権時代なら逆に「何が問題なのか」と首相は突っぱねて大臣を庇っただろう。
ただ、野田首相の立場も分からないではない。政権発足直後だけに無難な船出をしたい、野党から突っ込まれそうな芽は先に摘んでおきたい、そのためには早い段階で謝罪させて終わりにしたかったのだろう。
ところが逆に火の手が上がってしまり、辞任してもらうより仕方なくなったというところだろうが、「どじょう」首相はやはり小者。ナマズくらいのふてぶてしさが欲しいものだ。
最近気になるのは政治の世界がこのような揚げ足取りに近いようなことばかりをし、肝心なことはほとんど議論せず何かうやむやのうちにサッサと決めていることだ。
木を見て森を見ず、政治に哲学がない・・・。
上げればきりがないが、政治の世界がこれだから、一般社会も右にならえで同じようなことを輪をかけてやる。
もういまでは「寛容」などという文字は辞書のどこを探してもない。
あるのは排除の論理だけ。ちょっと気に食わなければ、すぐ排除しようとする。しかも物理的に。
しかし考えてみれば、日本民族は寛容の精神を持ち合わせていない民族かもしれない。むしろ排除の論理の方が歴史的にも強かったのでは、と考えるが、その考察はいずれまた機会がある時に譲りたい。
さて、再度脱出計画を練るか、それとも住みにくい世界をどれほどかくつろげて、束の間の命を、束の間でも住みよくするか・・・。
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