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林原グループの経営破綻が教えるもの(4)


4.変わった経営者

 林原健氏は風変わりというか、ちょっと変わった経営者である。
本稿を書くにあたって林原前社長のインタビュー内容などが書かれたものを読んでみたが、経営者として言っていることは至極まともである。もし、今回のことがなければ、同氏は経営者賞を受賞していたかもしれない。なのに、変わった経営者と言ったのはなぜか。

会社が嫌いな社長
 例えば氏の会社嫌い。会社が嫌いな社長というだけで十分変わっているが、出社は昼前で、2時か3時には退社するというから、この一事だけでも驚く。そんな生活を20年あまりも続けていたのだ。TVの「カンブリア宮殿」に出演した時にも本人自らがそう話していた。
 退社後は読書や好きな研究をして過ごしているとのことだから、経営者というよりは研究者。取締役ならさしずめ相談役といったところだろう。これでよく社長が務まるものだと思うが、代わって社長業を行っていたのが弟の靖前専務のようだ。2人の間で役割分担が決まっていたと思われる。
 健氏は自分は研究開発向きで経営者タイプではないと考えていたようだ。そういえば中国新聞のインタビューで次のように答えていた。
「本来、研究開発とマネジメントは異質で、2つを併せ持った経営者はいない。ソニーもホンダも違う才能の人が一緒にいたから、あそこまでなれたんです」(2002年5月30日)
 ソニーとホンダを引き合いに出しているが、自分ではホンダの方が近いと感じていたのではないだろうか。
 もし兄弟の間で明確に役割分担をしていたとすれば、粉飾決算の事実を「弁護士と相談を始めた昨年12月まで知らなかった」と健氏が答えたことも納得できる。

社外肩書きのない経営者
 奇妙なのは、氏の肩書きである。
今回のこともあり、いろいろプロフィールを見てみたが、肩書きが圧倒的に少ない。地元の優良企業で資産もあると見られていた(実際には違っていたが)わけだし、美術館や博物館などのメセナ事業を通じ地元に貢献していたわけだから、普通なら地元経済界や文化界の肩書きが一つや二つあってもおかしくはない。ところが、それらしきものは一つもないのだ。
 75年、33歳で科学技術功労者賞受賞
 91年、第1回メセナ大賞受賞
 97年、藍綬褒章を受賞
 以上の3つが氏の経歴を多少飾っているだけだ。

 ここから見えてくるのは財界活動、対外活動に距離を置いていた(嫌いだった?)ことだ。その理由は分からない。しかし、そのことが氏の評判を高める方向ではなく、マイナスの方向に多少働いていたかもしれない。
 私にとって林原グループは魅力的で興味がある企業だったから、一度は取材をと機会を狙い、同氏と同社のことをそれとなく尋ねていたが、残念ながら今日までに同氏と懇意にしている人物にはお目にかかれず、氏の経営者像を見聞きすることは出来なかった。代わりに耳に入ってきたのは「なにをしている会社か詳しいことは知らない」「林原は岡山の企業だとは思ってない」というような否定的な言葉ばかりだった。

 結局、健氏が地元財界活動と距離を置いていたことが、市に対するこのような評価を生んだのではないかと思われる。かといって業界や他の地域で華々しく活動していたわけでもなさそうだ。
 一代で財をなした者は地元では往々にして嫌われる。やっかみも加わり、讚められることはあまりないのが世の常。とはいえ、林原美術館や備前刀の技術継承、備中漆の復興事業、国際フォーラムの地元開催、地元大学出身者の雇用等々、地元への貢献を考えると、もう少し好意的に評価されてもよかったのではないかと思うが、対外活動に不熱心で、研究に没頭した氏のライフスタイルが招いたのかもしれない。

 対外活動にばかり熱心で、社内に目を向けないトップも問題だが、対外活動を全くしないのも問題だろう。少なくとも対外的な情報発信、オープン性は絶対必要だ。さらに付け加えるなら、トップの「顔が見える」かどうかはかなり重要だ。林原健前社長の場合は地元で顔が見えなかった。少なくとも私にはそう感じられた。

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デル株式会社


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