「3.11戦後最大の危機 あの時、総理官邸と福島第一原発で何が起きていたのか。日本列島は壊滅寸前だった」「危うい真実をあなたは目撃する」「あの日、本当は何が起きていたのか?」「当時の官僚たちが実名で登場する究極のジャーナリスティック・エンターテインメント」
ポスターのこうした宣伝文句にも釣られ、7月末、映画「太陽の蓋」を観てきた。その日は日曜日だし、3.11を題材にした話題の映画ということもあり、さぞかし観客は多いだろうと思っていたが、上映館が博多駅やショッピングセンターに併設のシネマコンプレックスではなかったからか、思いの外少なかったのは少し意外だった。
日本映画でもここまで作れた
まず映画の感想。ひと言で言えばよく出来ていた。ただし前半部分のみだが、前半は緊迫感があり引き込まれるように観た。そして感心した。日本映画でよくここまで内幕に迫れるものを作れたなと。それと同時に、もしこの時の政権が民主党ではなく自民党だったら、果たしてこの映画が作れただろうかという疑問も感じた。
この映画がリアリティーを持って観客に迫って来るのは「3.11」がまだ記憶に新しい5年前の出来事だということのほかに、当時官邸にいた人物、菅首相、枝野官房長官、福山官房副長官、寺田総理補佐官などが実名で登場していたことも大いに関係しているだろう。
それぞれに顔は似ていないのだが本人達の雰囲気をよく捉えており、そのことがよけいにリアリティを感じさせもした。特に三田村邦彦氏演じる菅首相などは額にホクロを付けてそれらしく似せているわけでもないのに、菅首相を彷彿とさせたのは役者の演技力に負うところが多い。それは菅原大吉氏演じる枝野官房長官もしかりだ。
我々は、と言うか現代社会はと言った方がいいか、瞬間湯沸かし器に似て何か事が起きればその瞬間はピーピーと音を立てうるさく騒ぎ立てるが、次に何か新しいことが起きればすぐそちらに反応し、いままでのことはまるでなかったかのように忘れてしまう傾向にある。
だが、福島原発事故は過去のこととして記憶の彼方に葬り去るわけにはいかないし、決して過去の事故ではなく、いま現在も、これから先にも起こる可能性がある。だから我々は「3.11」を忘れることができないし、忘れてはならないのだ。そして、あの時何が起きていたのかという検証はもっとされなければならない。
「太陽の蓋」はそういうことを改めて喚起してくれたわけで、この映画の価値はそこにこそあるといえる。
では、映画はそこに切り込めたのかと言えば、非常に不十分かつ中途半端だったとしか言えない。
前半がよかっただけに後半は
この種の映画で重要なのは、どのような視点で作るのかということだ。「太陽の蓋」は当時の官房副長官・福山氏の話がベースになっているため、当時の官邸よりの視点(官邸弁護的)なのはある意味仕方ない。それならそれで、もっと東電との緊迫した激しいやり取りを描くべきだったのではないか。
また当時、国民に知らされていなかった事実を掘り起こし、それらを明らかにしていけば「ニュースの真実」に近付けたかもしれないが、「ジャーナリスティック」とも「エンターテインメント」とも呼べず、観終わった後に消化不良というか味気なさというか、口直しにどこかでおいしいものを食べたい、というような気になってしまったのは私だけだろうか。
もちろん、そうしたことを全く描いていないわけではない。当時流布された「菅首相が海水注入をやめさせた」という情報が事実と違うデマだったことも作品中で触れられているし、圧巻だったのは菅首相が東電本社に乗り込んだシーン。
彼の目に飛び込んできたのはいくつもの大型スクリーンに映し出された福島の現場映像だった。なんと東電本社はTV会議システムを通じ福島原発の現場とリアルタイムでやり取りをしていたのだ。にもかかわらず彼らは情報を官邸にひた隠し、隠蔽を計っていたのである。
色々批判はあったが、もし菅さんが東電本社に乗り込まなかったら、こういうことも分からなかったはず。「イラ菅」が首相だったから、その後の原発全停止もできたわけで、もし、この時自民党政権だったらどうなっていただろうか。
俯瞰に欠けていた視点
残念なのは、この後の追及がなかったことだ。東電の事実隠しまで明らかにしながら、東電の責任には全編通じて全くといっていい程触れていない。監督は3.11を俯瞰した映画を作りたかった、とコメントしていたが、残念ながら俯瞰とはいかず官邸サイドの視点が中心で、それに後半部分に被災者の生活視点を取り入れた程度だった。
「太陽の蓋」はドキュメンタリーともノンフィクションとも謳ってない。せいぜい「ジャーナリスティック・エンターテインメント」と謳っているぐらいだ。つまりはフィクションである。フィクションであれば、もっと大胆に切り込んでよかった。「東京電力」「東電」という名前さえ使わず架空の社名で登場させているのだから、それぐらいの意地は見せてよかったのではないか。
(2)に続く
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