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ボンボン社長と実力派専務
          
〜安倍改造内閣を企業に置き換えれば〜


 船出早々の安倍改造内閣が早くもつまずいている。
こう次から次へと金にまつわる話が出てくるとうんざりするが、「身体検査なんていくらやっても同じ。金にきれいな政治家なんていないんだから」と誰かが言っていた。
その通りかもしれない。
そのうち閣僚に任命しても皆「身体検査」を恐れてなり手がいなくなるかもしれない。

 それにしても農水省は安倍内閣にとって鬼門だ。
3人目の遠藤農水大臣まで不正処理の問題が出てきた時は、強気を装ってきた安倍首相もさすがにお手上げと思ったのだろう、与謝野官房長官に電話して「どうしましょうか」と相談したとか。
 先の「お友達」官房長官だったら、「弱りましたね、どうしましょうか」と首相と一緒になって頭を抱え込んだだろうが、さすがに経験も実力も違う与謝野氏は「殿、慌てなさるな。跡は我らにお任せを」と、国家老と相談してさっさと処分を決めてしまった。

 これを首相をないがしろにした行為と見るか、内閣の要たる官房長官はかくあらねば、と見るかは意見の分かれるところだろうが、火の手が大きくなる前に防いだことだけは間違いない。

 ところで、この構図を見ながら、どこかでよく見かける構図と気付いた読者も多いだろう。そう、企業社会でよく見かける2・3代目のボンボン社長と先代から仕えている実力派専務の関係にそっくりなのだ。

1.経営理論とカタカナ語が好き

 ボンボン社長に共通しているのは首都圏の有名私大、中には欧米の大学院を修了するなど高学歴者が多く、欧米の経営理論を好んで口にすること。専門用語、カタカナ語を使うことが権威付け(ヒエラルキー)だと勘違いしているのか、社内で話をする時でも相手に分かるように話すのではなく、やたらこういう語を使いたがる。なかには意味をよく理解せずに使ったりするものだから、聞いていて時々首を傾げたくなることがあるが、アクセサリーと同じ感覚でカタカナ語を使っていると思って聞けば、ゴチャゴチャと使いすぎるカタカナ語もセンスの悪い成金趣味と同じと苦笑して聞き流すことができる。
 そういえば文科省などが過去何度か役所はカタカナ語を使わず、分かりやすい日本語にするようにと言ったことがあるが、2・3代目のボンボン政治家には全く効果がなかった。国が率先してカタカナ語を多用しているのだから諦めるしかないか。

2.気の合う仲間を集め、裸の王様に

 次に、諫言する者を遠ざけ、自分と意見が合う仲間を周囲に集めたがる点も共通している。
そういえば安倍首相も「お友達」を集めて内閣を作り、諫言を聞かなかったところなどはよく似ている。
 この「お友達」体制は攻めている時は強いというかうまくいくが、いったん守りに入ると非常に脆い。あっという間に崩れてしまう。
 例えば福岡では岩田屋デパートの中牟田前社長がその典型で、いつも気の合う仲間に囲まれ、デパート革命理論を口にしていたが、現実を無視した理論先行で経営を行ったものだから実質倒産。岩田屋という名前は残ったが、中牟田色は完全に一掃され、実質的には伊勢丹福岡店になった。

 「お友達」体制が守りや変化に弱いのは、組織内に異質を抱えない同質化体制だからである。同質化組織は組織を構成する個々は自らの頭で考える必要がなく、トップの指示通りに動いていればよく、そういうやり方が身に染みついているから、変化球が飛んできたときに対応できないのだ。
 バブル崩壊後、日本企業が長い間再生できなかったのは、それまで同質優先の組織にしてしまっていたため、急に自分の頭でものを考え、行動するようにと指示しても、それができる人材を組織から排除していたからだ。

3.簡単にギブアップする

 子供の頃から欲しいものを与えられて育ってきているから、なんでも自分の思うようになると勘違いしている。欲しいと思うとなにがなんでも手に入れたがるが、手にはしてみたが維持管理が結構難しかったり、興味がほかに移れば、あっさりと投げ出す。要するに駄々っ子のようなもので、もともと戦略的発想で動いているわけではなく、その時その時の気分である意味衝動的に行動しているから大変なのは部下で、失敗すればそれは部下の責任になる。ライブドアの堀江前社長などがこの典型だろう。
 駄々っ子のように欲しがるかと思えば、投げ出すときも突然で、周囲のことなどお構いなしに「も〜、や〜めた」と投げ出す。良くも悪くも執着心がないのだ。政治家の辞任では細川元首相がそうだった。「殿、ご乱心」という辞め方だった。最近では北海道の「白い恋人」で有名な石屋製菓の前社長、石水勲氏の場合がこのパターンだ。責任の取り方を間違えている。無責任という言葉がピッタリだが、ご本人達は権力に未練がない、さっぱりとした性格だと勘違いしているようだ。

 ここまで書いていたら、「安倍首相、辞任」のニュースが飛び込んできた。
まさにボンボン政治家の典型だ。
辞めるなら参院選の敗北直後だろう。
それを権力にしがみついて、誰がなんといっても辞めないと駄々をこねてきたが、改造内閣組閣後も閣僚と金の問題が次々に明るみに出るに及び、ほとんどやる気を失っていたように見えた。

 それにしても驚いたのは所信表明演説をした2時間後に麻生幹事長に「辞めたい」と伝えたとは。無責任極まりないが、この辺りの自己中心主義もボンボン育ちに共通した点でもある。

 それにしても安倍内閣の動きは、ボンボン経営者と実力専務の政治版を見ているような気がする。
 2・3代目のボンボン経営者は最初は自分の側近ばかりを重用して会社経営を行いたがる。その方が自分の思い通りになるからだ。ところが、それで失敗すると今度は手のひらを返したように実力派専務など先代から仕えている重役のいう通りに従う。全面降伏だが、反省し非を認めた上での降伏ではなく、ふて腐れ降伏である。
 安倍内閣の1次組閣、2次組閣がちょうどこのようなパターンを辿っている。
2次組閣は党の「重役」の意見に従った「ふて腐れ組閣」だから、安倍色がないのは当たり前だし、「なにをする内閣なのか首相のメッセージが伝わってこない」といわれたのも当然だろう。

 (跋)
 実はこの稿は数日前に書き始めたものだが、安倍氏がシドニーでテロ特措法の延長に「職を賭して取り組む」と言ったとき、「危ないな」と感じた。トップが辞職を臭わすようなことを口にした瞬間から流れが辞職の方向に作られていくからだ。
 恐らくこの時、安倍氏は「それぐらいの覚悟で臨む」という心構えを口にしただけだったに違いない。身内数人の酒席の席でさえ、トップが辞職を臭わす言葉を口にすると一気に辞職に向かって流れが作られるほどだから、TV取材で口にしたのはまずかった。逆に流れが作られ、本人ももうその流れに乗らざるを得なくなる。この辺は恐ろしい。だからしたたかなトップは自ら辞職という言葉は絶対口にしないが、言葉の影響を考えずに口にする辺りもボンボン政治家だからと言われても仕方がないだろう。


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