電子メールにケータイメール、さらにはブログ、Twitter、Facebookと、いまは誰も彼もが気軽に、かつ安易に文章を書く時代である。その結果、句読点を全く打たない文章、改行なしの文章、書き出しの1画頭下げをしない文章など読みにくいことこの上ない文章が氾濫している。
もう少しまともな文章を書け、とまでは言わないが、せめて読みやすい、意味が通る文章ぐらいは書いて欲しいものだと思うが、何分この国は国語教育より英語教育を重視する国で、漢字の書き順はうるさく教えるみたいだが、文章の書き方、国語の文法、作法にはとんと無頓着。当の教師自体がまともな文章を書けないのだから、まともな思考ができる人間が育つはずがない。
「文章は思考」だということを、この国と国民はもう少し真剣、かつ真面目に考えるべきだろう。人は物を考える時、母国語で考える。故に母国語教育がしっかりなされてないと、思考がしっかりとできない。
思考力がしっかりしてないとどうなるのか。相手が言っている言葉の意味や概念が分からないから会話が成り立たない。
学校の成績で言えば、理数科の成績はいいが、社会の成績が悪い子は決まって国語の成績が悪いはず。要は設問の意味を正確に理解できないから答えが間違うわけで、設問を正確に理解できれば答えも正確になる。理数科は数式が多いから設問の内容が理解できなくても解けることが多いため、こちらは国語力に左右されることが比較的少ないというわけだ。
それはさておき、文章を書き始めて迷うのが1人称の表記の仕方ではないだろうか。筆者、小生、ぼく、私、小職等々、色々あるがどれを使えばいいのだろうか。
「[僕]は友達など同格の相手に使う言葉で、目上の人には[私(わたくし)]です」
学生時代、ドイツ語教授が授業の合間に、そう話されたのをいまでも覚えている。より正確に言えば、授業の合間にボソッと独り言のように喋ったのだが。私にとってドイツ語は必須科目だったにもかかわらず、苦手を通り越し、さっぱり分からなくて困ったが、この教授の「独り言」は面白かった。ほかにも「食事中に黙ってただ黙々と食べるのは人間ではなく動物がすることだ。人間は会話しながら食べるものです」と、食事のマナーも教えられた。
同じ頃、父宛の封書に「殿」と書いて出したところ、帰省した時にこっぴどく叱られた経験がある。自分ではなんとなくかしこまった言い方、ちょっと格好良さそうという感じで使ってみたのだが、「[殿]は格下、目下の相手に使う言葉で、目上の相手に使うものではない」と教えられたのだ。官公庁の文書は長い間「殿」を使っていたが、やはり同じようなことから、いまでは「様」を使うようになっている。
さて1人称の表記に戻ろう。新聞等でよく見かけるのは「筆者」だ。これは「文章を書いた人」のことを指す言葉で、いまでも広くいろんなところで使われている。最初に使われたのは新聞記事ではないかと思う。新聞記事は署名がないから、この記事は誰が書いた意見、主張なのかが分からない。社としての主張は「社説」に書くが、社の主張ではなく記者個人の主張を書く場合にどうするか。本来なら署名記事にすれば済むことだが、署名記事にすれば記事の責任が第一時的に署名記者本人に来る。それをぼかして、誰だか特定できない形で、なおかつ特定の「書き手」の存在を知らせる便利な言葉として編み出されたのが「筆者」という言葉である。
よって責任の所在をぼかすような「筆者」という言葉は本来使うべきではないだろう。
次に「小生」「小職」。「小」とは「小さい」ことで、自らを小さい存在である学問の徒と謙遜して使った言葉で、主に明治時代に使われた。小職の職は官職のことで、やはり大した官職にあるものではない、と自らをへりくだっているわけだ。
本来は謙遜語だが、むしろ妙にへりくだって聞こえるため、近年は目上の人には使わない方がいいと言われている。
言葉は時代とともに変化するもので、小生、小職という言い方はへりくだりを通り越して、少し不遜な響きを相手に与えかねない。
「ぼく」と「私」についてはすでに述べた。
私も初期の頃、メルマガ等で「筆者」という言葉を使っていたが、どうも違和感を感じ、ほどなく「私」という表記に変え、以来、1人称表記は「私」で通している。できるだけ読者と目線の高さを同じにしたいと考えているからだ。
文体も「です・ます調」(敬体)と「だ・である調」(常体)があり、不特定多数を対象にした記事や原稿、メルマガでは「である調」を、特定読者に出す場合や、相手に呼びかけるような内容の場合は「です・ます調」で書くようにしている。
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