赤穂事件は会社倒産時と酷似
すべからく行動には義がなければならない。義あるいは理念なき行動は単なる暴挙、愚挙でしかなく、反乱ですらない。
だが、すでに見てきたように浅野内匠頭の刃傷事件は背景も動機もはっきり見えない。
では吉良邸に討ち入った赤穂浪士の行動動機は何だったのか。義憤なのか私憤か。義憤だとすれば何に対する憤りなのか。
こうしたことが何一つはっきりしないのに、後世、彼らの行動を「忠臣蔵」と持て囃すのはなぜか。
主君の死後、後追い自決する行為は殉死であり、彼らの行動は少し形を変えた殉死と見えなくもない。だが、殉死禁止令が出されたのは40年近くも前、寛文3年(1663年)5月。赤穂の藩士達もそれを知らないはずはないし、内匠頭がそこまで慕われる名君だったとも思えない。
切腹時、内匠頭の年齢は35歳。当時の35歳は今と異なり若造ではない。分別も思慮も十分にある年齢だ。よもや殿中で刃傷に及べば赤穂藩5万3000石は取り潰し、藩士300人余りを路頭に迷わせることになると思いが及ばなかったというなら、よほどの暗君。そうした藩主のため「殉死」した藩士達を「忠臣」とは呼べないだろうし、もてはやす世間もおかしい。
次に赤穂藩ではどのような議論がなされたのかを見てみよう。そこから討ち入りの動機が見えてくるかもしれない。
内匠頭切腹以降の流れは次のようになる。
4.元禄14年3月19日早朝、赤穂藩江戸屋敷より内匠頭が殿中で吉良上野介に対し刃傷に及んだとの早使いが赤穂に駆け込んでくる。
同日昼、江戸在中の、内匠頭弟の浅野大学長広から「くれぐれも赤穂城下で騒動を起こさないように」という書状が届く。
同日夜、内匠頭切腹の知らせ届く。
5.赤穂城内に藩士を集め筆頭家老大石内蔵助が事の顛末を説明。
6.藩主の弟、浅野大学は閉門、領地没収、城明け渡しは4月中旬との沙汰を告げる。
7.幕府の指示に従い城を明け渡す派と城を枕に討ち死に派、お家再興派に分かれ激しい議論が交わされる。
舞台を現代にタイムスリップさせてみよう。
先代が早くに亡くなり、まだ未成年にもかかわらず3代目社長に就任して20数年後。専務を始めとした取締役や古参社員に支えられ、特許製品を持っていたことも幸いし、そこそこ利益を出してきた。
40歳を過ぎた頃、業界活動のイベント担当副委員長に就任。今年は大きなイベントが開催されることになったが、昨年、同様なイベントで経験済みだったため少し気が緩み、細かいツメが疎かになり開催当日の早朝まで作業がズレ込んだ。そのことで委員長と責任の所在を巡って言い合いになり委員長に暴力を振るう。
今回のイベントは業界にとって外部向けの重要なイベントだったため、来賓の前で恥をかかされたと、業界トップから厳しく叱責された上、イベント担当副委員長の役職のみならず業界内の全担当から外される。
こうした噂は瞬く間に広まるもので、取り引きを一時停止したり断るところが次々に現れ、資金繰りに苦労しだす。金融機関に追加融資を頼むと、今までとは手のひらを返したような態度になり、この事業計画では追加融資はできないと相次いで断られ、思い悩んだ社長は自ら死を選んだ。
会社に残されたのはかなりの額の負債で、このままでは倒産間違いなし。全社員集会を開催して専務は実情を話し今後について話し合う。
まあ、およそこのような流れになるだろう。そして残された社員が取る行動は次の3パターンに分かれる。
1.民事再生法の適用を申請し、なんとか会社を存続させる。
2.新スポンサー探しなど手を尽くしてみたものの、いずれも実らず、残務整理し会社倒産。
3.見切りをつけて辞め、新たな就職口を探す。
赤穂藩の場合はどうだったのか。
1.幕府の決定は受け入れざるを得ないが、なんとかを全面取り潰しだけは逃れ、せめて前藩主の弟、浅野大学長広が浅野家を継げないか。
今風に言えば民事再生での生き残りの模索である。ただし、この場合、家臣の大半は赤穂藩に残ることはできない。
2.殿中における刃傷沙汰を起こした内匠頭の切腹申し付けに対する異議申し立てはない。
されど「喧嘩両成敗」が慣習のはず。にもかかわらずもう一方の当事者、吉良上野介に対する処分なしは納得できない。吉良に対する処分がこのまま認められないなら、城を枕に討ち死にする。
3.幕府に逆らうことはできず、藩取り潰し決定が覆ることはないだろうから、残務整理をし退職金や未払いの俸祿を貰い、次の仕官先を探すなりした方がいい。
(3)に続く
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