実は最近、またまた装飾古墳館に行ってみたが、その時の職員との会話が面白かった。「安藤さんは人間的にはいい人なんですがね」と私。「あの人は『デザインをしただけ』ですから。それ以上は私には言えません」と職員。「デザインをしただけ」とは今回の新国立競技場を巡る彼の発言にかけているのは言うまでもない。
ギャップの大きい建築家
「住吉の長屋」で一気にファンになったが、周辺環境との調和を無視した装飾古墳館(どこにでもコンクリートの打ちっ放し建築物でもなかろう)で一気に失望させられ、以来、安藤忠雄批判を随所で行ってきた(私ごときが大先生を批判するのはあまりにおこがましく、分をわきまえないと思いつつ)が、その一方で彼の素晴らしさも大いに認めている。
なかでも瀬戸内海の小さな島、直島の地域おこしへ一貫して関わり続けている姿勢は素晴らしいし、尊敬もしている。それでもひと言付け加えれば、地中美術館を訪れた際の、あの物々しさ、建物には一切触れないように(中の展示物に対してならまだ納得できるが)という説明には、装飾古墳館を思い出し、それまでのときめきが一気にクールダウンしたものだ。それが安藤氏ではなく、運営している福武財団の意向だとしても、ちょっと大袈裟すぎはしないかと、不快感さえ覚え、ひねくれ者の私は正直入るのをやめて帰ろうとさえ思ったほどだ。
ただ、建築家というのは充分な場所を与えられれば、いい作品を作り出すものである。直島の他にも「産廃の島」と言われた豊島(てしま)、さらに犬島(岡山県)の3島はいまやアートの島として全国、いや世界に知られる存在になっている。
古来、芸術家にはスポンサーが必要で、いいスポンサー(潤沢な資金を提供し、口をあまり出さない)が付けば、いい仕事ができる。
しかし、それは当たり前の話。だが、ほとんどの仕事はなんらかの制約の中で行われている。土地(スペース)だとか、環境だとか、資金、工期といった制約の中で。むしろ、制約があるからこそ知恵も工夫も生まれ、結果、いいものができるのだ。
数多くの仕事をしてきた安藤忠雄氏がそのことを知らないはずはない。デザインを選ぶ段階までが自分の役割、と言うのはまるで政治家の答弁を聞いているようだった。少なくとも一流の建築家がデザインを見て、工法や総工費について思いが至らないはずはない。逆に言えば、総工費の大枠が決まっていれば、その範囲内でベストなデザインを選ぶのが審査委員会の仕事のはず。
「すべて安藤さんの責任や」と言うつもりはさらさらない。だが、ザハ案を押し、それを委員長権限で採用したのは他ならぬ安藤氏だ。責任の一端も感じないというのはおかしい。ザハ案がいいならいいで、その理由を早めに出てきて堂々と説明すればいいではないか。彼の作品ではなく、建築家・安藤忠雄に失望した瞬間だった。
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