栗野的視点(No.705) 2020年9月7日
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国は誤りを認め、「コロナ」対策を変換すべき
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 今、我々は「新しい生活様式」という異常なライフスタイル(生活様式)を強いられている。にもかかわらず人々はこれを異常(強制)と捉えず、受け入れ、盲従している。それどころか、積極的に忖度、先取り、先走りした自粛のオンパレード。
この風潮は気味悪く恐ろしくさえ感じるが、この異常な風潮こそが経済を停滞させている。
異常光景の背景に行政主導の対応
今回のCOVID-19に対する怯えは地方都市ほど大きい。そう感じた1つが盆の帰省である。ある友達は5月、母親の命日に帰省しようとしたが取り止めた、と言っていた。「はっきり帰って来るなと言われたわけではないが、姉の言葉の端々に、出来ることなら帰って来て欲しくないというのを感じた」からと。
「父親から、帰って来るな。田舎で感染者1号になったら生きていけない、と言われ帰省を諦めた」という話もメディアで報じられていた。
さらに青森市では東京都在住の60代男性が帰省したところ、実家の玄関先に「さっさと帰って下さい!! なんでこの時期に東京から来るのですか? 良年(いいとし)して何を考えてるんですか?」などと手書きされた紙が置かれていたらしい。
青森市の例などは逆に「いい年して貴方は何を考えて、こんな紙を書いたんですか」と問いたいが、こうしたことが今春以降、全国各地で行われている。
なぜ、人はこうした行動に出るのか。「正義感」から? 一部にそのような論調が見られるが、それは間違いだろう。
むしろ逆で、イジメと共通した行動心理だと考えられる。イジメは必ず弱者(少数者)に向く。
上記の場合、弱者は都会から帰省してくる人や家族である。ここには地元民=多数者=強者であり、帰省者=少数者=弱者という構図がある。
上記のような行動に出る地元民は、地元の多数の思いや力を背景にしているという思い込みと、弱者には何をしてもいいという、自分の行動を正当化する意識が働く。
これはかつての日本軍の古参兵と新兵の間で行われた凄惨なイジメに見られた構図と同じであり、中国で日本兵が行った残虐な行為の実行犯は圧倒的に東北や九州の貧しい農民出身者だったこととも関係している。
上等兵や古参兵から非道な虐待を受けた者達は、その悪しき慣習じみたものを自分達の代で終わりにしようと考えるのではなく、今度は自分達がやる番だと、より弱い者(新兵)に同じ行為を向けていく。
動物でさえ群の中で弱者や家族を守るという行動を取るというのに、近年の日本人は動物にも劣ると言わざるを得ない。
だが、そうした行動を取るにしても、そこには彼らなりの理屈(理論ではなく)が存在する。例えそれが間違っていようとも。
古参兵を支えている理屈は「天皇陛下」という権威だった。上官でも元帥でも参謀でもなく、天皇という「不可侵の権威」を持ってくることで自らの行為を正当化するのだ。「陛下から賜ったもの」を粗末に扱ったというだけの理由付けで殴っていく。
やがて、殴るという行為自体が目的になっていく。そこにはもう一片の理屈もない。あるのは自分たちが置かれた理不尽かつ惨めな状況からくるストレスの発散だけである。
同じことが都会からの帰省者に向けた行為にも言える。そうした行動に出る彼らの理屈の背景には「地区の総意」という思い込みがあり、その背景には国をはじめとした行政の意思が存在している。
そして、「国や県」という権威を振りかざすことで自らの行為の正当化、犯罪意識の希薄化を図っているのである。
そのことを如実に物語っているのが徳島県で他県ナンバー車が傷付けられた例だ。これは徳島県の飯泉嘉門知事が「県外ナンバー車の数を調査するよう指示」したことと大いに関係している。
知事が県外ナンバー車の数を調べろと指示した、ということは県外ナンバー車=県外から来た人間=秩序を乱す者=排除する相手という図式を作り上げ、他県ナンバー車へのあおり運転、投石、傷付け等の行為に対する「犯罪意識の希薄化」が働いている。
これは戦時中の国民総監視体制と同じ構図であり、こうした行動はどんどんエスカレートしていく。パーマをかけた女性は「非国民」と非難されたし、聖書を持っていたり、キリスト教を信仰していることが分かれば「スパイ」嫌疑をかけられ、特高警察による尋問、投獄が行われた歴史を、この国は経験しているにもかかわらず、今また同じことが行われつつある。
(2)に続く
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