地名は土地の履歴書〜命名の謎を追う(2)
後醍醐天皇関係説


 ここで私が思い当たったのが中国自動車道の山口県内に「荷卸峠(におろしとうげ)」という地名があり、それと同じような命名ではないかということだった。
 「荷卸峠」は文字通り峠で、その峠を越える前に、あるいは峠を越えて麓に着いた時に、馬の背から荷物を降ろし、そこで一休みしたことから付いた地名で、車で走っていても、そのことは実感できる。
 車がない時代の輸送手段は人馬であり、峠を見上げ、ここで一休みしたに違いないと思わせるに十分な坂道が続く。それと同じように「休所」も峠越えの前、あるいは峠を越えてきた旅人が、そこで一休みしたことから付けられた名前ではないか、というのが私の推察だった。
 ただ、そのためには峠か山越えの道がなければならない。しかし、現在の国道はその集落を通っていない。人の往来が頻繁だった旧道は姫路(兵庫県)と松江(島根県)を結ぶ「出雲街道」で美作地区も通っているが、「休所」はそのコースから外れているため出雲街道筋の休憩所の可能性はない。

 では、歴史上の有名な誰かが、この場所で休んだことから付いたのだろうか。例えば弘法大師とか、通説では美作地区出身となっている宮本武蔵とかが。弘法大師伝説は各地にあるから可能性はゼロではないだろうが、近隣に弘法大師の足跡がないことから、その可能性は薄い。
 宮本武蔵はどうだ。少年武蔵は釜坂峠を越えて出奔したとされるが、方向は兵庫県側でやはり「休所」とは方向が違い、その可能性もない。
 色々聞いていると実家のすぐ後ろが「馬場山」で、近くに山城跡もあったことから、殿様が馬場山で馬に乗り、その帰りに休んだことから付けられたという人がいたが、馬場山と城、休所の位置関係を考えれば、その可能性は低かった。

後醍醐天皇関係説

 そんな話の中で可能性がありそうだったのは後醍醐天皇が休んだ場所とする説。後醍醐天皇が隠岐の島に流される時、美作地方を通ったのは間違いなく、児島高徳らが途中奪還を目指し、兵庫県と岡山県境辺りの杉坂峠で襲撃を計画するも間に合わなかった。それでも児島高徳は後醍醐天皇配流の行列を追い、宿営地の桜の幹を削り、そこに「天 勾践(こうせん)を空しゅうすることなかれ 時に范蠡(はんれい)なきにしもあらず」と歌を詠み、後醍醐天皇にあなたをお慕いしている范蠡のような人間はいますから、お気を丈夫にお待ちくださいと、それとなく知らせた話は有名だ。
 現在の津山市にある作楽(さくら)神社には、その故事に因んだ児島高徳が土下座をし落涙している銅像もあることから、後醍醐天皇の休所という説はかなり信憑性がありそうに思えたが、やはり出雲街道筋を外れて宿場町でもない所でわざわざ休むことも考えられない。
 となると「やすみどこ(休所)」の地名はどこから来たのだろうか。そう悩んでいた時、80代の人から耳寄りな情報を得た。
 「休所」から山を越えて福山(広島県の福山ではない)地区に出る道があり、福山地区から山越えでやって来た人が「休所」で一休みし、汚れた足袋などを履き替えて美作江見駅から列車に乗っていたというのだ。
 それで福山の人は「ここでちょっと休んどこう」と言い、それから「やすんどこ」と言っていたことから「やすみどこ」という地名になり「休所」という表記になった、と。
 この説が最も納得できた。ただし上記の話は戦後の話で、それ以前からそう呼ばれていたのかどうかは不明だ。古地図でもあれば分かるのだが、現段階で私が調べられたのはここまでだった。それにしても地名は色々なことを教えてくれる。



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