犯罪の背景に潜む潔癖症(2)


 今回の殺傷事件が社会に大きな驚きを与えたのは間違いないが、その背景に思いを致す時、もっと寒々しいものを感じる。
 人は見た目に捕らわれ、自分が見たものを信じる。死者19人という数の多さに戦(おのの)き、「ヒトラーの思想」という言葉や犯人の入れ墨像に眉をひそめる。もちろん生命の重さは数ではないが、1桁より2桁という数から受ける衝撃の方がはるかに大きいだろう。
 では死者の数がもっと少なく、影響された思想などなく、「ごく普通に見える真面目そうな青年」(実際、多くの犯罪で犯人を見知っていると称する人々によって語られる言葉にはこうしたものが多い)だったらどうか。恐らく受ける印象(衝撃度)はもう少し小さいのではないか。
 しかし、犯罪の質、根が同じならどうだ。私達は表面に現れた現象ではなく、その奥に潜むものにこそ目を向け、注意を払うべきだろう。
 恐らく今回の殺傷事件はヒトラーの思想に影響されたというような質のものではなく、もっと次元の違う、卑近なところに端を発しているのではないだろうか。そういう意味で、私は今回の殺傷事件に言い知れぬ怖さを感じている。

 誰もが殺人犯、植松のようになり得る要素を持っており、そういう社会にしてきた怖さを小説で表現した作家は宮部みゆき氏だと思うが、私が今回の事件で連想したのは約20年前から起きているホームレス殺人事件である。
 誰かに直接的に迷惑をかけたわけでもなく、いわばひっそりと社会の片隅で生きている人達を、ただ単に家に住んでいないという理由だけでゴミのように扱い、集団で襲い殺してしまう事件が相次いで起きたのを記憶している人は少なくないだろう。その犯人達はいずれも少年だった。なぜ少年がと思い、こうした事件が起きる度に「生命の大切さを教える教育をしていく」と語られるが、恐らくそうした教育ではこの種の事件はなくならないだろう。

潔癖症とホームレス殺人の関係

 ホームレス襲撃・殺人事件の背景に見え隠れするのが潔癖さを求める社会の存在である。潔癖といっても不正を嫌う方ではなく、不潔を嫌う方だ。極度の清潔さ、無菌状態を好む潔癖症候群とでもいう社会が、実はホームレス殺人事件、さらには相模原殺傷事件を生む温床になっているのではないかと考えている。
 潔癖症の日本人が増えだしたのは20年以上前になるだろう。賞味期限が切れそうなものは食べられないから始まり、電車やバスの吊り革に触れない、自宅以外の便座に座れないという人々が出てきた。彼、彼女達はやたらきれい好きだ。が、それも度が過ぎてくると様々な症状に自身が悩まされることになる。人と触れ合うことができなくなり、社会生活が困難になることさえある。
 そこまで病的にならなかったとしても、自分の子供にも清潔さを求め、手洗いはもとより、食卓の上に落ちたものを拾って食べることも許さず、着ているものが少しでも汚れればすぐ着替えさせるから、小学生の頃など日に何度も着替えなければならない。汚すと怒られるから少しでも汚れそうな遊びはしなくなる。
 こうした子供は一見おとなしそうで、「いい子」に見えるが、内面にストレスをためていることがあり、ある時、それが突然爆発する。いわゆる「キレル」というやつだ。キレルとなにをするか分からない、歯止めが利かなくなる。こういう例はよく報告されている。そのほとんどが犯罪後の報告だが。

 こうした「しつけ」は人間関係にも及び、少しでも身なりが悪い人を見ると「ああいう人に近付いてはダメ」「汚い」と言われる。子供の頃からそう言って躾けられると、人を差別するようになる。身なりが悪い人、貧乏人をバカにするようになるだけでなく、そういう(そう見える)人を自分と同等の人間ではなく、野良犬や野良猫と同じだと考えるようになる。
 「汚い」「下等な動物」だから石を投げても、棒を持って追いかけ殴ってもいい。「生きる価値がない」ものは排除してもいい、と考えるようになる。だから彼らには罪悪感が薄い。むしろ善行に近い感覚さえあるかもしれない。ホームレス襲撃・殺人事件はこうして起きていく。相模原殺傷事件の犯人は26歳である。潔癖症候群が日本社会に広がり出した頃、少年期を過ごしているわけで、背景にこうした思考があったと考えてもあながち間違いではないだろう。
 事実、大島衆院議長宛の手紙の中で「保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為と思い、居ても立っても居られず」「人類の為にできることを真剣に考えた」結果、実行すると書いている。

 昨今の犯罪を見ていくと、一昔前のように欲と怒りの結果といった単純な動機ではなく(それらは今でもあるにはあるが)、もっと多面的で、複雑に絡み合った動機から来ているのではないか。それ故に、従来型の動機解明では説明がつかないことが多い。かといって動機不明では裁判上、釈然としないから精神疾患とか一時的な心神喪失状態だったことにし、精神鑑定を行う。
 すると今度は相模原殺傷事件の犯人のように心神喪失を逆手に取って利用しようと考える輩が出てくる。なんともやっかいな時代になってきたと思うが、恐らくこの種の考え方をする人間は今後も出てくるだろう。
 問題はどうすればそういう人間の出現を防げるかということだが、根が社会にあるだけに難しい。それでも言えるのは違いを認める社会にすることだろう。優等生ばかりを育てるのではなく、玉石混淆の方がいい。人と違う考え方、人と違う生き方をしていい、と親が認めることだろう。社会に寛容さが必要だが、ここまでクリーンな社会になった日本では難しいかも。クリーンでないのは政界だけというのは逆だが・・・。


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