栗野的視点(No.675) 2020年2月27日
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
この国の無責任体質が権力者の独裁化を許していく。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
一体この国はどうなったのだろうか。頭から腐るというが、まさにその通りで、組織は上に倣えで、上のやり方を見て下は真似て行くから、上に立つものはよほどしっかりと自らを律していく必要がある。
横行する公私混同、横領
ところが、どうだ。国も企業も上が公私混同、私利私欲に走るから、当然のごとく下は上を見倣い公私混同、公金の横領を行う。接待と称して会社の金で飲み食いするぐらいはカワイイもので、経理を任されているのをいいことに馬主になって馬に金を注ぎ込み、ブランド物を買い漁り、挙句の果てには家まで買ったり豪遊するなど金を湯水のごとく使う。
それはそうだろう。社員をまるで部品か何かのようなコストとしか見ず、再建のためと称して大量に首を切り、逆に自分の報酬はアップして数億円もの年俸を受け取りながら、それでも足りずに、倹約志向の糟糠の妻と別れ若い女性を妻に迎え、フランスの城を貸し切って披露宴を行い、自宅、別荘を会社名義にしたのか会社から金を出させたのか、とにかく自腹を切るのが大嫌いな男が「名経営者」と持てはやされるのを見れば、「自分の使い込みなど小さなもの」と思ったかどうかは知らないが、今ではこちらも1億円未満の横領程度では驚きもしなくなったから「慣れ」とは怖いものだ。
いまさら「公僕」という死語を持ち出すつもりはないが、官僚の矜持などどこ吹く風で、政治家とつるんでスィートルームに泊まりながら、医学の進歩に必要な予算をバッサリ削り、イケシャアシャアと国会で答弁する女性官僚の姿などを見せられていれば、あんなのに比べれば自分の横領など大したことないと思っていたかもしれない。
薄っぺらな言葉ばかりが
「国家の品格」という言葉が流行った時があったが、今、どこを探しても国家に品格などない。それはこの国だけでなく、世界中どこも同じだろう。国の「トップ」に品格がないのに、国家に品格が備わるはずがない。
大体、言葉に重みと真実性がなくなった。「大事なことだから二度言います」と言っていた司会者がいたが、薄っぺらな言葉ばかりが何度も繰り返される。「スピード感を持って取り組む」「丁寧に説明していく」などという言葉は何度耳にしただろうか。その度に、あっ、今まではスピード感を持って取り組んできてなかったのだとか、「丁寧」とは「これ以上説明しない」ということと同義語なんだと思い知らされ、理解させられている。
最近は「丁寧に説明」すら言わず、「そのことは国会で報告した通りです」で済ませ、それ以上の説明を拒否する姿勢が目立つ。
国会で飛ばされるヤジが時々問題になるが、かつてはヤジを飛ばすのは野党と決まっていた。それがいつの頃からか与党がヤジを飛ばすようになり、あろうことか政権トップの地位にいる者がヤジを飛ばす。それも一度や二度ならず。本来ならヤジを飛ばす与党議員を諫める立場だ。それが率先してヤジを飛ばす。それも品がないヤジを。
言葉は思考であり、思想だ、とは過去何度か述べたことがあるように、品のないヤジを飛ばす人間に品はないし、その人の思考レベルはヤジ内容と同程度である。
それにしても先進国で、その国のトップが野党議員の質問に対してヤジを飛ばしたのを私は知らない。あっ、1人いたかもしれない。赤いネクタイが好きな大統領が。
ヤジだから許されるとでも思っているのか、根拠がないことをヤジとして言う。また野党議員の質問に対してまともに答えない。その彼が得意とするのは「ご飯論法」だそうだ。「ご飯論法」とは「今朝、朝ご飯を食べましたか」と問われ、朝食にパンは食べたが、ご飯(米の飯)は食べてないから「ご飯は食べてない」と答え、質問を都合よくすり替えて答える答弁のことらしい。
そういえば、かのご仁は質問に対する返答のすり替えが実にうまい。いや褒めているのではない。皮肉っているというのはお分かりだと思うが、最近は理解力不足というか、言葉を文字通りにしか捉えられない人が増えているので、蛇足とは思いつつ念のため記した。こういうことをわざわざ注釈しなければならない現実が情けないが。
「君子は豹変す」とは、徳の高い人は過ちに気付けば即座に改め、よい行いに転ずるとの意だが、前言を改めない、過ちを認めない、返答をしないのがこの国のトップで、それは独裁者に共通する性質に他ならない。
(2)に続く
|