なぜエリート(へ)の道を捨て、彼らは「信仰」の道へ走ったのか。それは当時の時代背景と無縁ではないだろう。
今から20数年前といえばバブル経済崩壊で価値観が一変した時代。それまでは猫も杓子もカネ、カネ、カネで舞い、踊っていた。そういえば扇子をヒラヒラさせ、夜毎踊っていた連中もいた。そう、誰も彼もが舞い上がり、モノに踊らされていたのだ。
それが一夜で景色が一変。夢から覚めた目に映った景色は妖しいまでに輝いていたゴールドではなく色のないモノクロームの世界。そして誰も彼もが疲れた表情をしていた。それはパラダイムの変化というより「宴のあと」の気怠さだった。
物質崇拝の虚しさに気づいた人々が向かう先は精神世界、スピリチュアルの世界。しかし、そこでもカネが支配していることに気づかず、純粋な精神に触れて自分の精神も清めたいと望む人達がヨガや新興宗教に向かったのはある意味当然といえるだろう。オウム真理教の前身、オウム神仙の会が生まれたはこういう時代だった。
目先の目標のみでなく、自分自身をも見失った人々は「自分探し」の旅を始めていた。大きな社会変化やパラダイムの変化が起きる時、人々の思考は内なる反省に向かう。
全共闘世代は「自己否定」という形で、それまでの自分達の生き方を反省、見直し、新しい生き方を模索した。
バブル崩壊前後に青春を送った世代は新たな生き方を模索するというより、水に浮かぶ水草のようにゆらゆらと揺れながら、それでも従来とは違う自分の生き方をなんとか見つけようとしていた。「自分探し」という言葉で。
だが、全共闘世代のように強烈な「アンチ(反)」を持たない世代は羅針盤のない船のように漂ようことしかできず、自分では向かうべき漠然とした方向すら分からずにいた。
本来なら宗教が、解決策にはならないにしても魂の安らぎぐらいは与える役割を果たすべきところだが、儀式宗教と化した既存宗教にはそのような役割を果たすことも、期待されることもなかった。
結局、行き場を失った者達が求めたのが「魂の救済」を謳うスピリチュアルや新興宗教であり、オウム真理教はそこにうまく入り込んだといえる。
問題はエリートと目される人達がなぜ、いとも簡単に取り込まれたのかということだが、彼らの人生はジグザグではなく、ほぼ直線で来ていたが故に、そのコースが行き止まりやジグザグに見えると、それを乗り越えたり迂回路を取るという判断が自分ではできない。別の言い方をすれば、敷かれた線路の上なら最速で、いくらでも走れるが、自分で路線を敷いて走るのは苦手ということだ。
そこに現れたのが麻原彰晃と名乗る松本智津夫だった。彼は進路を見失っていた「迷える者達」に進路を指し示した。進路が明確になれば、それに答えようとする傾向はエリートほど強い。
エリートの欠点は他の世界や寄り道をすることを知らないだけでなく、前提を疑うことを知らないということだ。決まったことには従う。決定事項の実行を命じられれば、その目的や命令の正当性に疑問を挟むことをしない。かつての日本軍の参謀、将校達のように。
「自己否定」という言葉で自分達の人生を見つめ直した60年代後半の若者、バブル経済崩壊後に「自分探し」という言葉でさまよい始めた若者に対し、今のエリートは「自己肯定」型である。
現在の自分の立場になんら疑問を感じることもなく、さも当然であるかの如くに認識している。当然、弱者や他者に対する配慮などまったくないし、そうする必要性すら感じてない。
それは政治家も同じで、2世、3世議員であることに微塵も疑問を感じてないだろう。政治家の家に生まれ、政治家になるのは当然、という意識しかない。そこにあるのは「政治」を製造業や流通業などの職業と同一視する考えだけだ。
そういう連中が「国民のための政治」や格差是正などできるはずがない。「選挙制度改革」と称して議員定数を減らすのではなく、逆に増やす法案を通したことでも明らかだ。彼らの頭の中にあるのは、繰り返し言うが「国民の生活」ではなく「自己肯定」論理だけ。こうした「エリート」が増殖しつつあるのが今だ。
その先に待っているのは狂信的な「エリート」層に導かれる狂信的な世界かもしれない。
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