「ガースー」の「Go to トラベル」は「Go to ”トラブル”」(2)
〜緊張感も危機感も薄い「ガースー」


緊張感も危機感も薄い「ガースー」

 そう言えば菅氏は動画配信サイト「ニコニコ生放送」で「皆さんこんにちは、ガースーです」とニコニコしながら自己紹介していたが、オイ、オイ、そんなお気軽でいいのか、と腹立たしく思った国民は多かったようだ。
 仮にも1国の首相だ。国民に自粛を呼び掛けながら、自らそれに反する行動を取っているのだから批判されて当然。さらに緊張感も危機感の欠片もなく、ニコニコとしながら「ガースーです」と挨拶するに至っては「今の状況が分かっているのか、このボケカースー!」と言われて当然。
 あれは「ウケを狙った」とか、「ガースー」と言っただけで叩かれるのは「かわいそう」などとTV番組で同情していたタレント、芸能人もいたようだが、「ガースー」と自己紹介したのはお笑い芸人ではない。1国の首相である。もちろん、お笑い番組に出演した際の発言でもない。ちょっと前なら「場所柄をわきまえろ」と怒鳴られたと思うが、今やこの言葉は死語になったのか。それとも苦言を呈したり、諌言する政治家すらいなくなったということか。もし、そうなら、まさに世も末だ。

 「ガースー」ならぬ「カースー(カス)」な「令和おじさん」は地方出身の庶民というイメージを自ら振り撒き、それで周囲の同情を買っているが、冷たい独裁者の目をし、官房長官時代から「問題はない」「コメントを控えます」を連発するなど、都合の悪いことには一切答えない姿勢を貫いている。
 この辺りは、不都合な事実に別の「事実」で返答し、擦れ違い議論に誘導する安倍前首相、トランプ大統領(執筆時)と似ている。いやそれに輪をかけている。
 個人的な主観だが、私は彼の目を見るとゾッとする冷たさを感じる。弱者を見る目はどこにも感じられない。

自分の顔に責任を持て、とリンカーン

 「40歳過ぎたら自分の顔に責任を持て」と言われるが、とりわけ政治家に重要なのは顔と言葉だ。この2つが「ガースー」には欠けている。
 説明するまでもないだろうが、上記の言葉を言ったのはリンカーン大統領である。大変有能な人物だから閣僚候補に、と推薦された人物を「顔が悪すぎる」と言ってリンカーンは採用しなかった。人を外見で差別したりしないリンカーンがなぜ、と推薦者が理由を質したところ「40歳過ぎたら自分の顔に責任を持たなければならない」と答えたという。つまり推薦された人物は「大変有能」かもしれないが、閣僚に相応しい品性、知性の持ち主ではないとリンカーン大統領は見て取ったわけだ。

 人の内面、つまり品性や知性、考え方は顔に表れるものである。べらんめえ口調で喋る、口が歪んだ人物がいたが、あの顔はお世辞にも品がいいとは言えない。彼とは違うが「ガースー」の鉄面皮のような顔と冷たい目を見れば、リンカーンなら即座に「顔が悪すぎる、首相にはふさわしくない」と言っただろう。
 ところが、近年「顔が悪すぎる」大統領、首相が増えているのはなぜなのか。各国の国民が政治に関心を示さなくなったからか、政治に失望したからなのか。
 政治への失望は無関心層を生み、思考停止から来る表面的な分かりやすさでリーダーを選ぶ傾向が各国で見られる。
 日本では小泉首相のワンイシュー政治に始まり、安倍首相の「3本の矢」と続き、菅氏の「携帯電話料金の値下げ」「Go to トラベル」という国民の目に見えやすい政策を目玉にするなど、戦略より戦術、政治理念より小さな目標というように、目先の達成しやすいものに目標を置き換えることで政治の「小さな見える化」を行っているのは小泉亜流。
 それでも小泉純一郎氏は首相を辞めた後、当時は官僚に騙されていたと反省し、原発反対論者になり、反原発を貫く姿勢に変わった。まさに「君子は豹変す」である。だが、小泉亜流の「ガースー」にはそうした信念もないだろう。                              (3)に続く


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