栗野的視点(No.700) 2020年8月2日
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「コロナ」が変えた社会(W)〜貧困層が増え、社会的格差がさらに拡大
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COVID-19は人類の生活をすっかり変えた−−。と言っていいかもしれない程、我々の社会生活、日常生活を変えつつある。人と人の物理的距離(ソーシャルディスタンシング、フィジカルディスタンス)の取り方やマスク姿、リモート〇〇は、そのうち元に戻るかもしれないが、修復できないほど距離を広げたものがある。
エールは時にプレッシャーにも
その1つに社会的格差がある。貧富の差と言ってもいいだろう。かつて日本は「1億総中流社会」と言われたように富の格差はそれ程大きくなかった。この頃が最も活力に溢れていた時であり、その後バブル経済期を迎え「ジャパン・アズ・ナンバーワン」など言われ、いい気になっていた頃もあった。
だが、「驕る平家も久しからず」の例え通り「日出づる国」はバブル経済崩壊を経て「日没する国」になり、その頃から貧富の差が開き出し、格差拡大社会へと移行していった。
現実と幻想、人々の意識の間には認識の時間的差がある。両者の差が埋まってきたのが平成の終わり頃で、その頃になるとほとんどの人が格差の存在を認めるようになったのと同時に、一度付けられた格差は変えることができず固定化されていくと身をもって知りだす。階層から階級への変化であり、格差の固定化である。
この現実を実感して初めて人々は格差社会の存在を認識するも、この国の人々の中にはまだ「努力すれば変われる」「変われないのは自分の努力が足りないからだ」という、親の代から擦り込まれた「希望という名の幻想」が残っており、それが「自己責任」という名に変えられ、個人の責任に帰せられ、権力批判に向かわないのが、この国の特徴だ。
かといって、鬱々たる不満を抱えたままでは自らが病んでいく。どこかに「ガス抜き」をする必要がある。向かう先は異分子、権力を持たない弱者。彼らは総じて集団に従わない、集団の「総意」と異なる意見を持っている。それを皆で叩こうとする。形を変えたイジメ、リンチである。
こうした現象は逆の形で表れることもある。例えば今回の医療従事者への讃辞。感染リスクに曝されながらCOVID-19患者を受け入れ、治療に当たっている医師や看護師など医療従事者に感謝を贈ろうと始まった、決まった時間に一斉に拍手する行為。
動機が善意だけに批判もなく各地で広がって行ったが、元はアメリカで始まったもの。モノマネでも二番煎じでも、善意を広げることはいいことだ。しかし、行政が率先してやることに腑に落ちないものを感じる。
福岡市でも市長をはじめ職員が一斉に窓際に立ち拍手するらしいが、そこに善意の強制と医療従事者へのプレッシャーを感じてしまうのはなぜか。
まず行政が行わなければならないのは実質的な支援だろう。医療現場が欲しいのは医療用具であったり、人的・金銭的支援のはず。それを「拍手」だけで済ませようというところにセコさ、パフォーマンスを感じてしまう。「同情するならカネをくれ!」という言葉はこういう時にこそ相応しい。
雨合羽の寄付も緊急時に何もないよりはあった方がいいだろうが、本当に欲しいのは医療用防護服で、行政や企業はその手配こそ全力ですべきだ。
後方部隊の役割は精神力に訴えることではなく、現場に不足物資を届けることである。輜重の補給があってこそ前線部隊は闘えるのだから。
後者の問題はギリギリのところで頑張っている医療従事者に、もっと頑張ってくれというプレッシャーを与えることになる。感謝の一斉拍手は最初はうれしいだろうが、決まった日時に定期的に行われ出すと、それはエールを通り越して「もっと頑張れ」というプレッシャーに感じてくるだろう。
感染リスクと背中合わせで、心身ともに疲れ切っているのに、まだ頑張れと言うのか。私達が欲しいのは休める時間と、勤務に見合った報酬だ、という気になってもなんら不思議ではない。立場が逆なら、多くの人がそう考えるに違いない。
(2)に続く
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