医者の不養生、という言葉がある−−。意味はいまさら説明するまでもないだろうから省くが、こうした例は結構多い。ある時など医師自身がそう言うのを耳にした。
「あいつはヤブではないが、タバコを吸うからな。そんな医師から健康がどうの、肺ガンがどうのと言われても、信用できないだろう。ああいうのを医者の不養生と言うのだ」と。至極ごもっとも。
似たような話はよくある。麻薬没滅運動をしている有名俳優がマリファナ吸引で逮捕されたり(外国の例)、教育評論家の女性の子供がグレていたりと。
なぜ、そうなるのか。一つには表の肩書きは仕事であり、ライフスタイルや実生活とは切り離しているからだろう。
公と私、内と外は別、という言い訳は通じない世の中になってきた。ついでに言えば「上半身と下半身は別人格」ということさえ指弾される世の中になってきた。プライベートな趣味の世界(性癖)のことまでとやかく言われるのもどうかと思うが、そこに金や権力を介在させるから、随分後になって相手から暴露されることになる。
もともと金や権力で結び付いた関係なら、金の切れ目、権力の衰退が縁の切れ目になるのは仕方ないだろう。そうならないためには金や権力の力で相手を支配する関係は最初から謹んでおくべきだ。
「充分な金を与えている」と考えるのは渡す側の論理で、貰っている側にすればいくらもらっていても金の縁が切れた後は「不充分」ということになるのだろう。
「友情(Friendship)とは天気のいい日には2人ぐらい充分乗れるが、天気が悪い日にはたった1人しか乗れない船(Ship)」と言ったアンブローズ・ビアスの言葉が想起される。
「妾を持つのは男の甲斐性」などという考えを今時持っている人は少ないと思うが、かつては韓国、タイ、そしていまは中国でそういう生活を「謳歌」している人もいるようだが、「旅の恥はかき捨て」とはいかない。中国でも急速に人権意識は高まっている。気が付いた時には「1人しか乗れない船」だったということがないように。
ところで「ジコチュー(自己虫)」という言葉が流行ったのは2000年。いまやすっかり定着した感がある(定着してもらうと困る。むしろ死語になって欲しいのだが)この「虫」、繁殖力が非常に強いと見え、死滅するどころかあらゆる所で増殖しているから手に負えない。
ひとたびこの「虫」に感染すると、周りのことなど見えなくなり自分の欲望第一に行動するようになる。警察官だろうが教職員だろうが、目の前に若い女性がいれば後ろに回って盗撮なんてのは序の口で、取調中に相手に抱き付いたり、未成年者と知りつつ買春。暑いからと食品が入った冷凍庫の上に寝そべり、その写真を自慢気にインターネット上で公開する若者等々。もう理性も職業倫理も溶解させるほど「ジコチュー」は強い毒性を持っている。
強い感染力も併せ持つ「ジコチュー」だから、もともと抵抗力が弱い者はいとも簡単に感染し、思いのままに振る舞うようになる。
そんな中で案外見過ごされているのが喫煙家のマナー。喫煙者本人より受動喫煙の方が肺ガンになるリスクは高い、というのはいまや世界の常識。それを知りつつ閉鎖空間(酒席の狭空間を含む)で喫煙する人を「ジコチュー」と言わずになんと言えばいいのか。それが医療関係や、環境関係の仕事に従事、あるいは環境保護を訴えている人間ならなおのことだ。
ところが、こういう人に限って閉鎖空間で平気で喫煙するのはなぜか。建て前と本音、仕事と趣味、公と私は別とでも言うのだろうか。
喫煙という個人の趣味嗜好を否定するつもりはない。ただ、健康、環境、小動物保護などを訴える仕事や活動をしながら、その一方で、複数人がいる閉鎖空間で喫煙する行為はどうなのだろうか。しかも、こういう人に限って自分の自宅では喫煙しない(できない)人が多いということだ。
曰く「自宅では女房が吸わせてくれない」「子供がいるから」「壁が汚れると怒られる」等々。
自分の家族は大事にするが、他人のことなど関係ない? 酒席の狭い空間で喫煙し、同席者達に受動喫煙リスクを高めようと意に介さない。これこそ「ジコチュー」、いや自己中心主義以外の何ものでもないだろう。まさに「医者の不養生」。もはや表と裏、公と私、外と内の使い分けを国民が、消費者が、ユーザーが認めない時代になっている。あれはビジネストーク、これは本音と使い分ける連中に、胡散臭さを感じだしているのだ。それでも「医者の不養生」を続けるのだろうか。
*受動喫煙で死亡する人数は年6,800人と推計されている。
この人数は交通事故による死亡数を超えている。
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