人は目に見えるものを見、叩きやすいものを叩く。故に本質は後ろに隠れ、巨悪は眠る。
問題にすべきは目に見えないもの、表に現れた現象よりシステム。しかし、簡単に図式化できないもの、複雑なものは取り上げないか後回しにする傾向がある。
こうしてメディアは視聴率が取れるものを次々と追っていく。そして人々はその時々で「いいね」をクリックし、他人の言葉にほんの少し自分の言葉を追加してリツイートしていく。それを今度はマスデータと称して、ある人々が操作していく。
我々はなんとも恐ろしい世界にいま住んでいるが、そのことを自覚している人はどれだけいるだろうか。
実行犯でもなければ、それを示唆したわけでもないのに「犯人」扱いされ、品格の問題が行動と同一に論じられる。その言葉の裏に女性差別が含まれている、そういう体質こそが問題だ、と責められる。それなら最初からそこを問題にすべきだろう。
セクハラ、セクハラというが、問題はセクハラより女性差別。なぜ女性の登用が少ないのか。同期入社にもかかわらず、なぜ男性と女性では同じ役職に達する年数が違うのか、と。
そこを突けない理由はただ一つ。ブーメランのように自らに返ってくる、天に唾するのと同じことになることを知っているからだ。
古い話で恐縮だが、もうかれこれ20年近く前になるだろうか、女性の登用について民間企業、県、国の機関を取材したことがある。ちょうど今のように、その頃も女性の登用が声高に叫ばれ、企業もこぞって女性の役職者を前面に出していた。当然、内部で女性の登用は進んでいるものと思い取材したが、結果に愕然とした。
女性を積極的に登用しています、というところでさえ、役職は係長まで。たしかに女性係長は多かったし、係長までの昇進に男女差はなかった。
しかし、管理職に位置づけられる課長になると激減。いわんや部長ともなると、女性の登用を推奨している県で1人、経産局(当時は通産局)ではゼロ。では、女性で持っているデパートぐらいは多いだろうと思ったが、ここもやはり男社会。女性係長は多いが課長は取材時でゼロか1人。当然、部長はゼロ。これで女性の職場といえるのかとビックリしたのを覚えている。
某デパートの社長を取材した時のこと。女性の登用について質すと、うちは積極的に女性を登用していますよ、との返事。ならばと具体的に課長職の女性数を聞くと1人いたかいなかったか。この結果に、当の社長自身も驚いていたが、係長までは女性が多かったので女性を積極的に登用していると思い込んでいたようだ。
私の妻はデパートの人事部で課長だったが、それでも教育担当課長だ。早い話が部下なし管理職である。他の課長職は皆男性。部長になれとけしかけたが、その前に亡くなってしまった。
もちろん、現在、女性の登用はかなり進んでいる(はずだ)。実際、女性部長や役員も散見される。ただ、絶対数からすればまだ圧倒的に少ない。第一、ことさらに女性が、と言わなければならない所に問題がある。
先頃、日本経済団体連合会が女性の役員・管理職の登用に関する企業の自主行動計画について、大手企業の取り組みを開示したが、女性の登用について数値目標を設定しているのは27社。アサヒグループホールディングスで、現在、女性の役員・管理職は約15%弱。この数字が多いか少ないかは種々議論があるだろうが、大手企業でさえこの程度。あえて数値目標を掲げないといけないところが問題で、まだまだ女性の登用は進んでいないようだ。
そういえば昨年、地場企業を辞めて結婚した女性がいた。年齢は40代後半かと思われたので、結婚退社はちょっと意外だった。というのは、管理職ではなかったとはいえ役職付きだったし、女性の登用を前面に出している企業だったから、当然、結婚後も仕事を続けると思っていたからだ。だが思い返してみると、多少思い当たる節もなきにしもあらずだった。
「やはり男でなければだめなんですよ」
話の前後は忘れたが、その会社の取材中に彼女がふと漏らした一言が妙に気になった。しかも、何かを吐き出すような言い方だったため、ちょっと引っかかったが、取材の本筋からは外れていたので、それが具体的にどういうことを指しているのか、深くは問い質さなかった。
女性の登用を謳い、男女差はないというのが、その会社のウリだったが、建前と本音があり、もしかすると彼女はそのギャップを感じていたのかもしれない。
物事を考える際、システムと運用、総論と各論の問題があるのはよく知られている通りで、人も企業もこの2つをうまく使い分けている節がある(ホメているわけではない)。
きちんとした評価基準があり、それがオープンになっていれば、後はその基準に基づいて評価し、昇進させていけば済むが、システムができていなかったり、運用にほかの要素(往々にして私的感情)などが入り込むと性差別、情実人事が行われることになる。
例えば理化学研究所は小保方晴子さんを採用する際、正規の採用システムを逸脱した形で面接等が行われたことが明らかになっている。
「もし小保方さんがかわいらしい女性でなければ採用段階の対応はもっと違ったものになっていたはず」
現在、第一線で活躍している女性研究者の中にはそう指摘する声も多い。採用段階で情実が入り込み、本来必要な英語での面接その他を省いてしまったわけで、これは裏返しの女性差別である。
さて、数値目標を導入してもなかなか女性管理職が増えない原因は種々あるだろうが、そのうちの何割かに配偶者の理解と家事、育児の分担があるのも間違いないだろう。そして、どうやらその比率は20年前とさほど変わってはいないようだ。
現実問題として、管理職以上の職位につけば定時出勤・定時退社は難しいだろう。そこに持ってきて家では炊事・洗濯などの家事大半、さらに育児までしなければならないとなると身体がいくつあっても足らない。当然、そこには配偶者の理解と協力、家事・育児の分担が必要になる。
ここまでくると総論賛成どころの話ではない。具体的に男性自身に自らの態度が問われてくる。
最後にまたまた私的な経験話で恐縮だが、かつて女性差別の問題で某自治体組織で実践的セミナーを行った時、若い女性参加者から鋭い質問を投げかけられたことがある。
「講師、あなたは家で家事の分担をされているのですか」と。
偉そうに喋ったり、指導しているが、自分自身は言行一致しているのか、と詰問されたのだ。
もし、読者がその時の私の立場だったらどうされただろうか。
家事の内容により分担を決め、その通りにやっていますよ。もともと家事は好きですから、と答えることもできるし、互いに曜日を決めて家事を分担するようにしています、と答えることもできる。
さて私はどう答えたか。本音を言えば、こんな質問が飛んでくるとは思わなかったし、多少脚色して答えてもよかったが、正直に白状した。
「実は威張って言えるようなことは何もしてないんです。料理は全く作れないので、そちらは妻任せ。その代わりに洗濯と皿洗いをするようにしています。といっても、それは私の分担と決めているわけではないから、まだまだですね」と。
いまなら料理も多少は作れるし、家事の分担ももっとできたが、それは分担すべき相手がいなくなってから。孝行したい時に親はなし、とはよく言ったものだ。
ともあれ、女性の登用は仕事への理解と、家事・育児の分担作業といった家族によるサポートも必要だろう。
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