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情報の信頼性を疑ってかかることも必要


 誤解がないように記しておくが、このところ私が本メルマガで提示しているのは単なる「小沢擁護論」ではない。ジャーナリズムの使命、あり方、ひいては情報を発信する側、受け手側の問題である。

 情報を取り巻く環境が大きく変化したのはデジタル化の進展と密接に関係していると考えている。そのことについてはいずれ書く予定だが、日本で顕著な変化が現れだしたのは、小泉政権以降ではないだろうか。

 私はこの変化に非常な危機感を抱いている。
小泉政権の特徴をひと言で言えば「分かりやすい政治」だ。「敵」を作り、それを叩くことで、二者択一を迫るやり方である。そこには第3の選択は存在しない。

 問題を提示し、イエスかノー(あれかこれ)を迫る方法は一見、非常に分かりやすく感じる。しかし、少し考えると分かることだが、元々提示された問題が正しいのかどうかという疑問がある。命題の正しさが絶対条件だ。
 二者択一方式は、目の前に提示された素材、データが正しい時に初めて成り立つものだ。基礎データへの信頼性がなければ、その後導き出された数式、結論に信頼性がないのは自然科学を少しでもかじった人間ならすぐ分かることである。

 情報の提供者は確かな情報を提示する必要がある。一方、受け手の側は提示された材料が正しいかどうか、嘘偽りがあったり、故意に操作されたものでないかどうかを判断しなければならない。
 しかし、発信された情報の正しさを情報の受け手が判断するのは簡単なことではない。結局、発信メディアの信頼性に頼る以外にない。
 メディアのブランド力はマスメディアの方が圧倒的に大きい。それだけにマスメディアは正しい情報を発信する責任がある。
 このメディアの責任が近年ないがしろにされている。特に小沢氏に対しては執拗なまでに「小沢叩き」がメディアによって行われている。これは非常に危険な動きだと感じているからこそ、私は何度か警告を発している。

 小沢氏が目指してるのは政官癒着を断ち切り、政治の仕組みを変えることだ。
第1次民主党政権下で陳情を幹事長室に一本化したのは「密室的なやり方」という次元のものではなく、政権とカネの癒着を断つのが目的だ。
 構造変革の問題を私利私欲の問題に矮小化するのは非常に危険だが、古い価値観の持ち主達が古い価値観のままで(古い価値観に押し込めて)判断しようとするから、小沢=カネという構図の中に無理やり押し込め、情報を発信するわけだ。
 同じ類の情報が繰り返し流されていくと人々は次第にそれを信じていき、元々提示された命題、データそのものへの疑問を忘れてしまう。

 たしかに小沢氏自身、言葉が少ない嫌いはあるが、彼は全く語らないわけではない。彼が語っている言葉が意識的に報じられない部分も多い。実際彼は政策に関して何冊も本も出しているのだから。

 繰り返し言うが、私が懸念しているのは小沢氏個人に関することではない。小沢氏に対するマスメディアの扱いに象徴される、「情報の意図的な操作」のことだ。
 メディアは後になってから検証をする。郵政改革の時もそうだった。郵政選挙の時は小泉・竹中路線を徹底的に持ち上げ、それ以外の意見・情報を黙殺し、「郵政選挙」を熱狂的に煽り、その後、地方が急速に疲弊した後になって、やっと検証し始める。こうした過ちを大東亜戦争・第2次大戦中から何度も繰り返してきている。

 我々もいい加減に目覚めるべきだ。「前提そのものが間違っていないか?」ということを真剣に考えてみる必要があるだろう。
 産業に関してはいずれ書こうと思っているが、この分野でも同じような思考回路があるのではないか。同じ情報(もの)を大量に流す(作る)という方法を断ち切る必要がありはしないか。
 一度、目の前のデータ、素材の信頼性そのものを疑ってかかる必要があるだろう。


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