崩壊するニッポン(5)
〜社会に蔓延している、「結果が全て」の風潮(2)


 「勝てば官軍」意識は明治以降の日本人に特徴的に見られた精神といえる。過程(プロセス)を問う声は「結果オーライ」の声に掻き消され、ほとんど聞こえない、唱えない。それが顕著なのが相撲で言えば白鳳の相撲だ。
 横綱が下位力士との取り組みで張り手や猫だましを使う。もちろん禁じ手ではないから誰が使っても問題はない。それをいいことにしたかどうか、白鳳は一向にこうした手を改めるどころかエスカレートさせ、平手ではなく拳打ちや肘打ちと紙一重の手まで繰り出していた。
 さすがにそれは行き過ぎと苦言を呈する声が大きくなりだしたのが日本人横綱誕生、貴乃花「改革」等で白鳳人気への依存から脱却できそうな機運が生じてからだ。つまるところ白鳳1強で白鳳人気に頼らざるを得ない時は「不正」にも目を瞑り、代わりが見つかり出すと途端に叩きだすというなんとも潔くないやり方が、どうもこの国を支配しているようだ。

 「結果が全て」という考えがスポーツ界を覆っている例は他にもある。カヌー日本代表選手がライバル選手の飲料に禁止薬物を混入し、出場停止に追いやった事件がその典型だろう。ついにここまで来たかという感じだが、これも「結果が全て」という風潮が広く社会一般に広がっていたからといえる。
 要は個々の問題ではない。産業界、経済界、金融業界等々、この国のあらゆる分野がこの考えに汚染されている。いや、この国だけではないだろう。資本主義先進国も、成長著しい国も、結果を追い求める強欲資本主義に汚染され、金を儲けることがいいことだという考えに捕らわれているのだ。
 金を儲ける→手段を選ばない→多少の不正、誤魔化しを行ってでも結果を出さなければならない→不正、誤魔化しが常態化する
 こうした思考の循環に対し誰も問題を指摘しない。あるいは指摘した人間は組織から弾き飛ばされるか閑職に追いやられてしまう。そういう現実を目にしているから下の人間は「ヒラメ族」になり、ひたすら上のご機嫌を見ながら仕事をしていくようになり、異議申し立てをしなくなっていく。
 例えば日大アメフト部の監督とコーチが会見を開いた時のコーチの様子がそんな感じだった。

 今この国は転換点に差し掛かっているようだ。過去の精神論・情緒論的なものからシステム的・科学的な考え方に基づく指導へ、封建的な思考を残した古い体制から新しい体制への転換点に。
 こうした転換はとっくの昔に終わっていると思われていたが、実のところ底流で根深く残っていただけではなく、泡のように沼底からブクブクと湧きだしてきているようだ。その典型は政治の世界だが。
 一体この国は変わるのか、変えるのか。資本主義はどこに向かっているのか。「終わりの始まり」が始まっているとすれば、その先にあるのは何か−−。
 私見だが、一つは縮小均衡、コンパクト化を図ることだろう。宇宙はビッグバン後、拡張を続けているが、その動きを停止するところもいくつか存在する、と言われている。宇宙ですら無限に拡大し続けるものばかりではないようだ。いわんや地球上の経済は無限に拡大し続けると考えるには無理がある。拡大への動きを止める時期が来ているのではないか。



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