地方の言葉を使えないデラシネは
本作品とは直接関係ないが、個人的に強く感じたのは全編水俣弁で書かれていることだった。ものを書く時、その地方の言葉でなければ描き切れない情景や感情表現がある。特に話し言葉は。
石牟礼さんは標準語で書くのでも、部分的にその地方の言葉を使って書くのでもなく、全編水俣弁で通している。肥後弁(熊本弁)でもなく水俣弁であり、水俣地方の言葉でなければ彼、彼女達の気持ちを表現できないと感じたからだろうが、それは書き手にとって悩むところ、一種の賭けみたいな部分もあるのではないだろうか。
全編地方弁で書いた時、読者に伝わるだろうか、多くの読者を得られるだろうかと考える一方で、標準語では普段の生活感がない、よそ行きの格好、カメラが回っている前で喋る、普段の自分とは違う人間の言葉、生身の人間を感じられないフィクションになってしまうという思い。
そうしたジレンマの中で石牟礼さんは方言で伝えることを選んだのではないかと勝手に推測する。
私のようなデラシネ(根なし草)で、地方言を忘れ、持たず、その地方の言葉で表現したいと思っても、それを正確に記すことが出来ない人間にしてみれば、その地方弁をそのまま表記できるのは羨ましい限りである。
子供の頃は美作(みまさか)地方の言葉を喋っていたはずだが、方言を使うことに都会に対する引け目のようなものを感じ、故郷を出てすぐ出身地の言葉は使わなくなった。
親父が東京
学生時代を過ごした松山弁は、夏目漱石が田舎者とバカにしたのに倣ったわけでもないが、卒業するまで一度も使ったことがなく、ずっと関西訛り風で通した。博多弁は未だに喋れない。
結局、喋る言葉は標準語風のデラシネ言葉。どこまでいっても「風」がない生の言葉が喋れない、記せない悲しさ。
もう1つ石牟礼さんの文章に感心したのは会話を忠実に再現している点。記憶力の悪い私には録音機で録音して後で書き起こすしかないが、石牟礼さんが常に録音機を持ち歩き、録音していたとはとても思えない。
他人の能力を羨ましがっても仕方ないが、それにしても年々進む物忘れ、今聞いた端から忘れていくのはなんとか止められないかと思い、サプリメントを飲んではいるもののムダな足掻きかも。
「みなまた」が今炙り出す体質
文章と違って映像はリアル(真の意味で写実ではないが)だ。たった1枚の写真が1000の言葉より多くのものを語る。そして見る側にストレートに訴えかけ、想像力はその後でやって来る。その点で文章は映像に及ばない。
ユージン・スミス氏が撮った水俣病の写真はライフを飾り、多くの人が目にしたことがあるだろう。その中には詩的なもの(胎児性水俣病の少女を母親が抱いて入浴させている写真)もあるが、水俣病の現実、悲惨さを激しく切り撮ったものもある。それと同時にチッソという会社の恐ろしいまでの暴力性と隠蔽性も。
映画「MINAMATA」はチッソという企業の暴力性も余すところなく映し出している。どの程度顕わにしているかは本編を観なければなんとも言えないが、それがこの映画の隠れたテーマかも知れない。
チッソに雇われた人間がユージン達が借りて住んでいた小屋を焼き払い、それまでに撮ったフィルムや写真も焼き払われたし、水俣病患者の交渉団がチッソ五井工場(千葉県市原市五井)を訪れた時、チッソ社員約200人による強制排除に遭い暴行を受ける。ユージンはその時カメラを壊され、彼自身もコンクリートに激しく打ち付けられ、脊髄を折られ、片目を失明する重症を負っている。
熊本大学などの研究で水俣病の主因は有機水銀化合物と明らかにされた後でも、チッソは「水銀汚染と工場排水の関係は明らかでない」と責任を回避し続け、患者への補償も賠償金ではなく「見舞金」としてしか認めない姿勢を取り続けた。死者への「見舞金」はわずか30万円。当時としてもあまりにも低すぎる命の代金。これで怒らない人間がいるだろうか。
こうした企業体質はチッソ固有のものだろうか。その後、日本企業の体質は変わっただろうか。
残念ながら答えはノーだ。その後も不都合な真実に対する隠蔽体質は微塵も変わっていない。
2017年〜2018年にかけて次々に明るみに出た製造業の不正、データ改ざんはまだ記憶に新しいはず。自動車メーカーの無資格検査、検査データの改竄は長年に渡り複数のメーカーで常態化されていたことが明らかになったし、免震・制震装置のデータ改竄。
そして今回明らかになった三菱電機の鉄道車両向け機器における不正検査は30年前から行われていたというから、個別の部署の問題というより組織ぐるみの不正であり、企業体質の問題だ。
さらに呆れるのは、こうした問題が発覚した後のトップの会見。皆、一様に自分達経営陣は知らなかった、と現場の問題に擦り替えるのが1つ。
もう1つは検査に不正はあったが「品質には問題ない」という開き直り。自動車、鉄道車両、橋梁など一度事故が起きれば大惨事になる、生命に関わる問題なのに、その認識が経営陣にないことこそが問題である。
しかも問題を起こしている企業はいずれもよく知られた、日本を代表する大手企業ばかり。結局、50年経ってもチッソに象徴される製造業大手の体質は何一つ変わってないと言える。政治もしかりで、不都合な真実を覆い隠す体質がこの国を覆っているようだ。
映画「MINAMATA」は皆がそういうことを考えるいい機会を与えてくれているとも言えるだろう。
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