月初から岡山県の田舎で過ごしている。あまりの猛暑に極力外出しないようにしているが、それでも全く外出しないわけにはいかないから出かけると人に会う。そうした時に必ず言われる言葉がある。「福岡は暑いでしょ」。はい、その通りです。でも今夏は最高気温が福岡と同じだったり、逆に福岡の方が低かったりもする。だが、九州は南だから暑い、という思い込みがあるのだろう。多少同情めいて「福岡は暑いでしょ」と言われることが多い。
私がいるところは田舎だから、たしかに体感的には福岡より少し涼しいような気がする。コンクリートの塊がない分だけ輻射熱や夜間の放射熱が違う。特に夜から明け方にかけてはエアコンなしはもちろんだが、涼しくて目が覚め、慌てて窓を全部閉めてまわるほどだ。
実はこちらの滞在は1週間で切り上げようとしていた。だが「最低気温が福岡とは全然違うから盆過ぎまでいたら」というパートナーの言葉に押され、一緒に帰ろうかどうしようかと散々迷った末に彼女を先に帰福させ、私1人盆過ぎまで残ることにした。
で、毎日何をしているのかと言えば、驚くほど何もしていない。日記だって空白の日があったりする。床に入ると秒殺で眠りに落ちるタイプだから、寝床で本も読めない。まあもともと遅読でもあり多読とは縁遠い。どちらかと言えば書きながら思考する、自分の考えをまとめていくタイプだからいつも何かを書いているが、遅読同様遅筆だから救いようがない。
先日TVを見ていた時、伍代夏子が旦那、杉良太郎の受け売りと断りながら「速さは金になる」と言っていた。それを聞きながら妙に納得した、金に縁がない自分の生活に。
ところで「美作(みまさか)」と聞いて読者の皆さんは何を思い浮かべるだろうか。ちょっと前なら(もしかすると今でもそうかもしれないが)女子サッカーチームの「湯郷ベル」だろうが、昭和の人間ならやはり「宮本武蔵」だろう。
最近は歴史に詳しい「歴女」が多いというから、そんなのは当然と言われそうだが、最近は宮本武蔵のことを知らない人も案外多くて驚く。
現在の美作市(旧英田郡大原町宮本)は宮本武蔵生誕の地として知られている。実のところ武蔵生誕の地と言われている所は2、3箇所(兵庫県に2箇所)あるが、いずこも確証はない。その中で優勢だったのが美作市大原で、ここを「武蔵生誕の地」と広く知らしめたのは吉川英治が書いた小説「宮本武蔵」である。
この小説がどれほど多くの人に読まれたかというのは「お通」(小説の中で武蔵を慕う女性として描かれている)を実在の人物と信じている人が多くいることからも分かる。「お通」は吉川英治が作り出した架空の人物である。武蔵の生涯で女性の影を感じさせるのは晩年、熊本で身の回りの世話をした寺田家ゆかりの女性と京都島原の遊郭の女性(実在か不確か)ぐらいだ。
第一、武蔵は中村錦之助(映画で武蔵を演じた)や役所広司(NHKTVの武蔵役)とは似ても似つかない異形の相をしていた。そのことは晩年の肖像画からも見て取れるが、とても女性に持てるような顔ではない。
実のところ武蔵に関して信用に足る史実は熊本で過ごした晩年の数年のみである。それ以前のことは両親、生誕地、年齢を含め明確ではないとはいえ、武蔵生誕の地を謳う自治体が観光案内に間違いを記し、観光客に偽りの情報を発信していい訳がない。
私は武蔵ゆかりの美作市出身で、武蔵が没した熊本にも数年在住したことがあり、熊本在住中に霊巌洞(晩年この地に籠もり「五輪書」を記した)を訪ねたり、学生時代には少年武蔵が故郷を捨て出奔したとされる時に歩いた釜坂峠を実地徒歩で辿ってもみた。
夏休み中で踏破(?)したため峠を超えて武蔵が辿り着いたとされる兵庫県平福の宿に着いた時は熱中症寸前で、川の畔で足を冷やしたことまではよく覚えているのだが、そこからどうして帰ったのかは全く記憶にない。当時のことだからタクシーに乗る金もなく、またそういう考えも思いつかなかっただろうからバスにでも乗ったのか、それとも再び歩いて帰ったのか。
かれこれ30年近く前になるが某誌に「転換期を生きた宮本武蔵」と題して評論を連載したことがある。その頃、関係資料をかなり読み漁ったが、不覚にも「生誕地」大原に立てられている観光看板は見なかった。ところが5、6年前に大原を訪れたついでに「生誕地」に寄り、武蔵の案内看板を読んで驚いた。
武蔵が描いた「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)」という有名な書画がある。宮本武蔵のことを少しでもかじったことがある人間なら誰でも知っているという程有名な書画で、この名前を知らない人間はモグリと言っていいだろう。
ところがである、よりにも寄ってこの固有名詞が間違って書かれていたのだ。「枯木鳴鵙図」とは枯れ木にモズを描いた絵で「鵙」は百舌鳥のことである。それが何をどう間違えたのか「鵙」とは似ても似つかぬ「財」の字になっていたのだ。これでは意味がまるで通じないどころか観光客に間違った情報を発信しているわけで、「生誕地」自治体の恥を全国に発信しているのと同じことである。
その時、紙もテープも持ってなかったので、やむなくボールペンで看板の「財」の字の上に「これは間違い」と書いておいた。それから数年後、その近くを通ることがあったので寄り道をして観光案内板を見てみた。するとボールペンで書いた箇所はきれいに消されていたが、「鵙」の字は相変わらず「財」の字のままだった。ミスに気付くどころか、私の注意書きをイタズラ書きと判断して消しただけだった。
なんとも情けない。美作市は武蔵の生誕地を誇るだけで、武蔵の生涯や彼が残した作品に無頓着なだけでなく、世界に誤った情報を平気で発信し続けている(英字も併記されている)ことに腹立たしささえ覚えた。
これが熊本市ならまずこのようなミスはしないだろうと思うとよけいに情けなくなり、市長宛に手紙を認めて文字の間違いを指摘しておいた。
実は固有名詞の間違いは「枯木鳴鵙図」だけでなく、もう1箇所あった。「独行道(どっこうどう)」を「独行進」と誤記していた。「道」と「進」の字は見た目、似ていなくもないが「独行道」と「独行進」では意味するものがまるで違う。書道を「書進」、茶道を「茶進」、柔道を「柔進」と記すようなもので、なんのことやら分からない。もうここまで来ると書いた人のオツムの程度まで疑いたくもなる。
「独行道」は武蔵が死の7日前に自身の生き方を21か条に記した自誓書で、弟子の寺尾孫之丞に「五輪書」とともに与えたものである。それを「独行進」と書くなど、素人でもしない誤記といえる。しかも、この案内板が作られたのは昨日、今日のことではない。
中村錦之助が映画「宮本武蔵」で主役を演じたのが1961年。これが第1次武蔵ブームで、第2次ブームは役所広司が演じた「宮本武蔵」。これは45話続いたシリーズで1984年からNHKTVで放映。ともに下敷きは吉川英治の「宮本武蔵」。
この2つの武蔵ブームで旧大原町が生誕地として脚光を浴び、観光客が来るようになり、それに合わせて観光案内等も整備したと思われるから直近でも約30年前。第1次ブームの頃なら50数年前に案内板が作られ、その頃から誰一人気付かず、あるいは気付いた人がいても指摘せずに来ていたことになる。
さて市長に直接、手紙を認め誤記を指摘した結果、上記2箇所の誤記は速やかに訂正されたので、今後は間違った情報を世界に発信せずに済むとまずは一安心。
まあいずこの観光案内も多少似たり寄ったりのところがあり、史実と俗説入り乱れて紹介されている(特に大河番組の影響は大きい)から、鵜呑みにはできない。ただ怖いのは俗説、小説のフィクションでも繰り返し流されることにより事実として信じられていくことだ。そして映像メディアがその一翼を担いつつ、彼らにその自覚がないことである。
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