デジタル全盛時代とはいえ、やはり正月の楽しみは紙で届く年賀状。もう何年もお会いしていない人からはもちろんのこと、つい数日前に話をした人から届いた年賀状でも、その人の近況や別の面が垣間見られたりして懐かしさや親しみを覚える。
毎年必ずやり取りをしている人もいれば、そうでない人もいるが、一度しかお会いしていないのに、その後年賀状だけは必ず届けてくださる律儀な方もおられる。
ただ、お会いしたことは一度しかないのに、年に一度のご挨拶だけ長年続けている相手は時々迷う。このまま続けるか、それともこの辺りでけじめをつけるかどうかと。住所が自宅ではなく会社だったりすると余計だ。本当に本人の意思なのか、会社の総務あたりで処理している「義理賀状」かよく分からないからだ。
そこで出すのを止めたとたん、翌年こちらの安否を心配する一文が入った賀状が届き、慌てて返事を書いたこともある。終活に向けて「断捨離、断捨離」と言われながら、なかなか「断捨離」できないのが義理と縁。
それはさておき、今年届いた年賀状の中で、目を引いたものがあるので以下に転載してみる(本人に断りなく無断掲載。お許しを)。
「安保関連法制」で戦争の準備が、「マイナンバー」で
「国民監視体制」が整い、「一億総活躍社会」は「一億一心、
火の玉」みたいで「もはや戦前である」ようですね。
それでも「爆買い」に支えられた「アホノミクス」で経済は
「安」とか・・・。
世界を見れば「爆弾テロ」だらけ、隣の赤い国からは「赤色
警報」の大気汚染襲来。暗い昨年でした。二人の「ノーベル賞」
学者と「五郎丸ポーズ」や「火花」などで癒されましたが・・・。
今年は「SEALDs」など「戦争に行きたくないじゃん」という若者
たちとともに「辺野古移転」「原発再稼働」などに反対して「アベ
政治を許さない」と心ひそかに叫ぼうと思っています。
私は今年傘寿。去年は夫婦で、エスカレーターで転倒するなど
老化が進行中。「原節子」の訃報で、わが青春時代は終わりました。
家内は足腰が弱りつつも週三日外出、三病院、三デパート通いの
「トリプリスリー」老女。二人で「下流老人」にならないよう、
「終活」より「生活」(生きる活動)に精を出すことにしました。
「うまい! 山田君、座布団2枚」。思わずそう叫んでしまった。差出人は地元TV局の元報道局長。さすがに時代を捉えるセンスは素晴らしい。しかもウィットに富んでいる。数年前からこの賀状を戴いているが、毎年読むのを楽しみにしている。
アベノミクスを「アホノミクス」と言ったのは、たしか同志社大学大学院教授の浜矩子氏だと思う。2002年に三菱総研主席研究員から転職した人で、ファッションセンスと顔はあまりよくない(失礼)が、舌鋒は鋭い。毎日新聞紙上で定期的にコラムを書いているが、これがなかなか興味深く、勉強になるし、個人的には好きだ。私自身、もう少し若ければ同志社大学で彼女の講義を受けてみたいと思ったほどだ。
口角が下がっている顔は一般的に意地悪さを感じさせるが、もし逆に口角が上がっていれば随分変わった印象になり、いまよりもっとチヤホヤされるだろうなと思う。いや、そんな見かけや外観ではなく中身で勝負しているからスゴイ。世の男性陣も少しは彼女を見習うべきだろう。「草食男子」「絶食男子」と名付けられ、人畜無害の様に思われるのも平和を愛する別称だから、それはそれでいい。しかし、魂まで抜かれてはいけない。隠し持った魂の牙を日夜研ぎ澄ませ、と言いたい。
かつて平岡正明は「ジャズ宣言」で「感情」の正当性を高らかに謳った。
「感情をもつことは、つねに、絶対的に、ただしい。ジャズがわれわれによびさますものは、感情をもつことの猛々しさとすさまじさである。あらゆる感情が正当である。感情は、多様であり、量的に大であればあるほどさらに正当である。・・・・身もこころも智慧も労働もたたき売っていっこうにさしつかえないが、感情だけはやつらに渡すな。他人にあたえるな。真の感情をもつものは現在あまりにもすくな」い、と。
いま巷に溢れているのは平岡が言う「感情」とは似て非なる、あまりにも小さな私的感情。「現代人の感情はけもののレヴェルに達していない」。そう、現代は若者も老人もすっかり牙を抜かれ、怒るのは身近な小さなことばかり。「真の感情」を持て! 平岡正明ばりにアジテーションでもやってみたいが、そんな力も金も残ってない「下流老人」。せいぜい愚痴ることしかできない身が悲しい。
ともあれ、今年も「栗野的視点」にお付き合いをよろしくお願い致します。
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