栗野的視点(No.754) 2021年12月16日
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「怒り」の感情を忘れた団塊の世代に問いたい。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 一体この国はどうなったのだろうか。いや、この国だけではなく、この世界は。覇権主義が横行し、世界は猛スピードで歴史を逆回転させているように見える。それにつれて人々の理性も知性も感情も逆回転している。
かつて平岡正明が「ジャズ宣言」の中で「感情、感情こそが全てである」と獣の感情を忘れた現代人に「鋭い感情を取り戻せ」と警鐘を鳴らしてから50年近くも経つというのに、我々の「感情」は鋭くなるどころか逆に鈍くなり、怒りは小さくなるばかりだ。いや「怒り」はとっくに失っている。
「怒れる若者」はその後中年、シニア、老年と歳を重ねるに従い「怒り」をすっかり忘れ、孫の話に眉を下げるだけの好々爺になってしまっている。いや彼らは「怒り」を忘れたのではない。最初から「怒り」を知らなかったのかもしれない。
好々爺になることを否定しはしない。好々爺になって過ごせることは「平和」なことの証だから。「ゴルフ」だって健康のためと言えばジョギングやウォーキングと同じで、今では大してカネがかからないスポーツになっている。広々としたゴルフ場を歩き、汗を流すのはいいことだ。
だが、と敢えて言いたい。誰と一緒にコースを廻るのかは重要だ。岸田か安倍か田中か。それとも反社勢力か総会屋か。
食事だってそうだ。ちゃんこ料理は私も大好きだ。冬は鍋に限るし、色んな具をブチ込めるちゃんこ鍋はおいしい。だが食べる相手や店はやはり問題になる。そんな感性さえ持ち合わせていないなら「ボーッと生きてんじゃないよ」と5歳の子供に叱られても仕方がない。
ゴルフに興じたり、ちゃんこ料理店でご機嫌を取っている間にも、食べるものさえなく餓死したり、病気で亡くなっている子供が世界に、いやこの国にだっていることに思いを馳せれば、そのわずかな金額をホームレス支援団体やユニセフ、「国境なき医師団」に寄付しようと思ってもバチは当たらない。それともそんな感情さえ失くしてしまっているだろうか。
100万円をばらまいたり、100億円近くを投じて宇宙に行った人がいる一方で、ジェフ・ベゾス氏から宇宙飛行に誘われたトム・ハンクスは断ったらしいが、その理由を「2800万ドル(32億円)は払わない」と述べている。そして「無料だったらロケットに乗っていただろう」が、それは「ビリオネア(10億万長者、大富豪)でいるフリをする喜びをただ経験するために」だと茶目っ気たっぷりに述べている。
きっと彼は同じ32億円を使うなら、自己満足や数分の宇宙飛行のためでなく、もっと他のことに使いたいと言いたかったのだろう。
因みにジェフ・ベゾス氏は環境問題や子供の貧困問題に取り組む財団を立ち上げたり、そういう活動をしている団体に寄付をしたりもしているということも付け加えておく。
たしかに日本の大金持ちや、先の御仁もあまり報じられないだけで寄付や慈善活動はきっとしていることだろう。札束をばら撒くぐらいだから。
今の世界を取り巻く環境や世界の情勢を見れば、そういう気になるはずだ。1日100円、月3000円の寄付で120人にはしかの予防注射ができたり、清潔な飲料水を126人に届けることができるのだから。ましてや1億円あればどれだけの命が救われるか。
1万円は金持ちにとっては紙くずだろうが、貧乏人、困窮者にとっては大金だ。そんな中で数千円を捻り出し、寄付をする人達がいる。「れいわ新選組」に寄付をした人達はそういう人が大半だという。なぜ彼らはそこまでして寄付をするのか。それは今の社会や政治に対する「怒り」だろう。
その一方で「死刑になりたくて」無差別殺人をしたり、走る列車内で全く無関係の人間を死傷したり、人の命を救う仕事の看護師が点滴液に細工をしたり、注射器で空気を入れて何の関係も罪もない人を複数殺したりする事件が相次いでいるのを見れば、この世は怒りに満ち溢れていると思うかもしれない。
しかし、それは怒りなんかでないことは彼、彼女達が無感情、無表情に犯罪を実行していることからでも分る。ましてや、かつての若者が抱いた「怒り」や平岡正明が言う「感情」と、彼らの「怒り」や「感情」は程遠い。
今この世に満ちているのは身の回りや向こう三軒両隣の私的なことをさも重大事であるかのように感じる怒りばかりで、公的で大きな問題には怒りの感情がほとんど向いていない。
(2)に続く
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