読者から:「けんけんがくがく」の話題


栗野的視点(No.703_2)                   2020年8月24日
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読者から: 「けんけんがくがく」の話題
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 残暑お見舞い申し上げます。

 昨日辺りから少し気温が下がり、やっと「残暑」と言う気分になりました。
皆様お変わりございませんか。
私はすっかり田舎生活が身に付き、天井裏のハクビシンに悩まされながらも、早朝1時間半のノルディックウォーキングをしていますが、相変わらずの好奇心で農作業中の人に声を掛けいろいろ尋ねたりするのとノルディックポールを持ってのウォーキング姿は珍しいのでしょう「この頃ちょくちょくお見かけしていましたが、どこにお住まいですか」などと先方にも興味を持たれ、ウォーキング途中で会話を交わしたりするようになりました。そして朝夕の日差しが弱くなった頃を狙って今回買い求めた充電式草刈り機で庭と駐車場の草取りに励んでいます。

 さて今回は栗野的視点(No.703):目を覆いたくなる政治家の質低下(1)〜「Go to Localキャンペーン」を、に対して読者からのメールをお届けします。

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栗野さん、こんにちは。先日いただいたメールの「けんけんがくがく」の話題を拝見しておりまして(本題から外れた箇所に反応して申し訳ないです)、あっ、まさにこれだっ…と思い当たったことがあります。

先般、某出版社で30年ばかり辞書編集にかかわっておられた方とお喋りする機会があったのですが、「『自分は日本語を正しく使っている』と自負しておられる、だいたい50歳以上の方々にこそ、是非とも最新の国語辞典を読んでいただきたいと思っているのです」と強調しておられたのが印象的でした。
その際、例として幾つか語っておられた中の1つが、まさに栗野さんのメールにあった「けんけんがくがく」でした。私も含め、現在“中・高年”の域に入っている年代は、「けんけん」の後は「ごうごう」であり、「がくがく」の前に付くのは「かんかん」なので、「けんけんがくがく」は、両者を混同した誤用である…と学んできました。

ところが、文化庁が平成7年から毎年「国語に関する世論調査」を実施するようになり、さらに平成22年、「常用漢字表」が改訂されたあたりからは、『誤用でも一定の使用比率を超え、全年齢層で定着しつつあると思われる場合』あるいは、『そもそもの語源と照らし合わせて矛盾しない場合』は、正しい日本語として認める方向に国全体が向かっているのだそうです。

ちなみに、「大辞泉 第二版」の2020年版で「けんけんがくがく」を引くと、

けんけん‐がくがく【喧喧諤諤】
[ト・タル][文][形動タリ]《「けんけんごうごう(喧喧囂囂)」と「かんかんがくがく(侃侃諤諤)」とが混同されてできた語》大勢の人がくちぐちに意見を言って騒がしいさま。

<類語>
喧喧囂囂(けんけんごうごう) 侃侃諤諤(かんかんがくがく)

…と、侃侃諤諤との混同であることを指摘しつつ、1つの項目として掲載されています。

『そもそもの語源と矛盾しない』の例としては、他人の失敗と同じ失敗を、うっかり繰り返してしまった時の「二の舞を…」の先が、最新の辞書では、かつての誤用を「間違っていない日本語」として認め始めているようです。
この言葉、もともとは舞楽の舞台(「二之舞」という演題)が語源なので、「二の舞を演じる」が正解、「二の舞を踏む」は、「二の足を踏む」との混同による誤用というのが定説でした。ところが、能が民衆に受け入れられるようになった室町時代の書籍には、『舞を踏む』『猿楽の舞を踏みつ』という用法が多数見られるため、「二の舞を踏む」も間違いとは言い切れないと、多くの辞書編集者や校閲者が考えるようになっているとのこと。

試しに、私の古いノートPCにインストールしていた、1度もアップデートしてない2013年版ATOKで「二の舞いを踏む」と打とうとすると『誤用/「二の足を踏む』との混同」というアラートが表示されるのですが、自動アップデートされ続けているGoogle日本語入力に切り替えると、「演じる」と「踏む」の両方が変換候補で出てくるようになっていました。

他にも、「的を射る」が正解、「的を得る」は間違いという定説も、語源となった『正鵠を…』の後、本家の漢文で「射る」「得る」の両方が使われているので、「的を得る」も必ずしも誤りとは言い切れないという解釈になりつつあるそうです。

私は、会社で一人前の仕事を任せてもらえるようになった入社5〜6年目の時期、バブル景気の影響で、俗語・流行語が次々と生まれていたため、「誤用の日本語を仕事で(特に文章執筆において)使うのは真に恥ずべきこと」だと、諸先輩方から厳しく指導されていました。
その心構えを、現在まで持ち続けてきたつもりだったのですが、やはりコトバは生き物。そろそろ、自身が持っている“コトバの常識”を、21世紀版にアップデートしなければならないか…と、少々重たい気分で日々の原稿をまとめております。

ほり編集事務所
堀 辰也
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 堀さん、お久し振りです。
ATOKとgoogle 日本語入力をお使いですか。
同じですね。私のATOKは2012年版で、堀さんがお使いのより1年古い版。そろそろ新版に替えようかと検討はするんですが、ATOK単体は高いし、「一太郎」のバージョンアップの方が割安だから常に「一太郎」のバージョンアップで使ってきましたが、「一太郎」を使うことがないので2012年で止まったままです。
 「Word」も持ってなく、この種のソフトで使っているのはフリーウェアの「Libre Office」。印刷用にしか使わないのでこれで充分事足りていますし、執筆用にはWindowsが出る前のdos時代からエディター1本です。

 googleIMEとATOKの違いはgoogleはネットから用語を収集しているという点です。スマホの文字変換も同じ方法で「しめじ」ほか、今ほとんどの文字変換がこのやり方になりましたね。
 長所は新語やネットでよく使われている後の収録・変換が速いことです。
短所は誤用、誤変換でも一定数収集すれば、それを「辞書」として収録・変換していくことで、悪く言えば誤用を広める一助になっています。
 悪貨が良貨を駆逐する、とはまさにこのことというのは言い過ぎか。

 dos時代には管理工学の「松茸」とかバックスの「VJE」など、いい日本語変換辞書(当時はフロントエンドプロセッサーと呼ばれていた)がいくつかあり、私はATOKの頭の悪さが嫌いでVJEを使っていましたが、商売のうまさから残ったのはジャストシステムのみ。良貨にもかかわらず、ビジネスの面で負け、これら市場から消えていったのが残念です。そのATOKも後から出てきた狡賢いgoogleIMEに駆逐されかかっているのは歴史の皮肉ですね。

 ことは確かに生き物で時代とともに変わることを否定はしませんが、ここでも悪貨は良貨を駆逐する、人は易きに流れると言われるように「国語辞典」も大衆追随です。
 「言葉は思考であり、思想である」と言うのが私の考えですが、語の意味を考えもせず使ったり、やたら省略、短縮した言葉を広めていくのは「1984年」でJ・オーウェルが「予言」した「新語法」と同じ危険性を感じます。



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