「いっぱいカネを持っているんだから、それ以上欲しがらなくても十分だと思うけど」
今回のゴーン氏逮捕のニュースに触れて、そう呟いた人がいた。それが庶民感覚で、その感覚は間違っていない。そして、ゴーン氏自身もそのことを自覚していたようだ。
だから年俸20億円を10億円と過少申告したわけで、自分が20億円ももらっている(取っている)と分かれば「従業員のモチベーションが落ちると思った」と逮捕後、話しているようだ。
先の人物は「そんなにたくさんのお金を何に使うんだろう」とも言っていたが、「有り過ぎて使うのに困るだろう」というのが庶民感覚だ。
ベルサイユ宮殿の離宮・トリアノン宮殿を借り切り再婚相手との結婚披露宴を盛大に行ったようだが、俳優を雇って18世紀風のコスチュームを着せる代わりにホームレスを招待して食事を振る舞ったりしていれば、慈善家としての評価も多少は得られたかもしれないのにと思ってしまうが、そういう発想はないのだろうね。
ゴーン氏が結婚披露宴を華々しく行ったのは2016年10月。同じ年の2月にフランシスコ・ローマ法王はバチカンにホームレスのために無料のシャワー室と理髪所をオープンし、シャワー利用者には着替えの下着、タオルなどが入った「身だしなみセット」袋まで渡している。さらにシスティーナ礼拝堂にホームレス150人を招きもした。
ローマ法王のこうした行為は当然、ゴーン氏も知っていたはずだと思うが、私利私欲に走る人間は自らのことしか考えていないようだ。それとも金の使い方を知らないのだろうか。
新自由主義との決別になるか
ゴーン氏の最大の罪は自らの報酬を過小に申告したことでも、自宅その他の家賃を日産に支払わせたことでもなく(もちろん、それらも重大な罪だし、どんどんこの事例が拡大している。娘が通う大学への寄付金まで日産に提供させていたのは、それが事実なら驚きを通り越して守銭奴と思ってしまう)、日本、ひいては国際社会に「グローバル企業のトップは高額報酬が当たり前」という風潮をもたらしたことである。
一部では「日本の経営者の報酬は低すぎる」とか、「グローバル企業のトップに比較してゴーン氏の報酬は高すぎるということはない」とか、「優秀な人材をつなぎとめるため、競争力のある報酬が求められている」「ゴーン氏級の高給役員はアメリカではザラ」と擁護する向きもあるが、トップの高額報酬を問題にするのは「文化の違い」ではなく、資本主義と強欲資本主義、新自由主義的資本主義との立場の違いである。
実際ルノーの株主総会でもゴーン氏の高額報酬は問題にされ、2016年の総会では54%の株主が反対票を投じ、ルノーは同年7月、ゴーン氏の報酬の内、業績に連動するボーナス相当分の引き下げなど報酬体系の見直しを発表している。
因みにこの時のゴーン氏の報酬は約725万ユーロ(約9億4000万円)。日産の報酬はその倍以上なのに、それを容認する感覚の方がおかしいと思うのは私だけだろうか。
アメリカが世界をリードする時代は終わったにもかかわらず、まだ新自由主義的経済はアメリカを中心に根強く生き残っているばかりか、社会主義を自認する中国までもが経済ではアメリカの新自由主義経済に追随している。
18世紀に世界で問題にされた「搾取する資本主義」がいままた新たな衣をまとって亡霊のように先進諸国で新たな搾取を生んでいる。そのことに人々は気づきながら「グローバル経済」という言葉に惑わされ容認しようという動きすら見えるのは世界の将来にとって決していいことではない。
ゴーン氏の問題はそのことを労使双方に気づかせるいい機会になるのか、それとも個別の案件で処理されるのか。
我々はもうそろそろアメリカ的新自由主義的経済と決別する時だと思うが・・・。
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