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日本人はマイナス面を見ようとしない〜信長と秀吉の残虐さ(1)
信長の残虐さと狂気


栗野的視点(No.807)                      2023年9月1日
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日本人はマイナス面を見ようとしない〜信長と秀吉の残虐さ
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 90年代初期まで、ドラマや読み物、経営書に至るまで戦国物が流行った。管理職を主要読者ターゲットにした当時の月刊誌「プレジデント」は中国・三国志の時代や日本・戦国時代の武将をよく取り上げて特集を組んでいた。
 戦国武将で最も人気があったのは織田信長で次が秀吉だろう。信長は変革者、革新者として、秀吉は成り上がり者として人気があり、ともにそうありたいと願う人々から支持を集めたし、バブル期、ベンチャー期は時代がそういう人物を歓迎していたといえる。

 作家もドラマ脚本家もそういう時代の空気に沿う人物像を創り上げるから、信長や秀吉の実像とはかけ離れた虚像が創られ、それが実像として人々に信じ込まれていく。
 もちろん全てが虚像ではなく、ある側面の事実を取り上げているに過ぎないのだが、その部分のみを取り上げ、もう一方の部分を取り上げないか無視するものだから、そちらはなかったことにされる。
 言うなら歴史の改変。中国やソ連では写真からも削除して、その人物の存在そのものを党の正史から消し去っている。それでも同時代を生きた人は正史から消された事実を知っているが、その時代を知らない世代は党や歴史の正史で教え込まれたことを事実だと信じてしまう。ほかに知る方法がなければ、毎日流され、教え込まれる歴史を事実と思い込む。まさにジョージ・オーウェルの「1984年」が今も行われている。

信長の残虐さと狂気

 それはさておき戦国武将で人気1、2を争う信長と秀吉はよく似ている。というか弟子が師を見習う、部下が上司を見習うように秀吉は信長を忠実に模倣している。
 信長像は光が当たる側面のみが強調され、暗い負の側面はほとんど無視されるか強調されずに描かれている、ドラマや小説等でも。だが、負の側面にこそその人物の本性が現れる。そこを無視すれば人物像を見誤ることにもなる。

 信長が短気で癇癪持ちな性格だったのは気に入らないとすぐ手討ちにした事例がいくつか残されているし、明智光秀を足蹴にした事例もそうだが、その行為に至った経緯やきっかけは残されていない。このことは当時、現場にいた人間にも理由がはっきり分からなかったのかもしれない。それほど信長という人間は分かりにくい性格だったのだろう。

 信長の残虐性を最もよく表しているのが比叡山の焼き討ちと荒木村重一族と村重に連なる者達への虐殺、浅井・朝倉との戦い後の行動だろう。
 信長の残虐さは女子供や非戦闘員までを容赦なく惨殺するように命じていることだが、このことを後世の歴史家はあまり注視していない。たしかに比叡山に僧兵はいたが、その数は2桁と知れている。にもかかわらず比叡山に火を放ち山から逃げ降りてくる僧侶たちを含め数千人を惨殺。逃げ道を塞ぎ一人残らず殺害させたのだ。
 さらに一向一揆との戦いでは降伏を申し出た伊勢長島の一向宗2万人を焼き殺している。
 時代は下るが降伏を申し出た捕虜虐待はジュネーブ協定違反で、戦後罰せられたし、当時でも農民、町民などの非戦闘員を殺害したのは信長と秀吉ぐらいである。秀吉の場合は信長のように直接殺害ではなく餓死に追い込んだという違いはあるが。

 信長に匹敵する残虐行為を行ったのはナチス・ヒットラーぐらいではないかと思われる程、信長の残虐さは群を抜いている。とにかく自分に楯突いた、逆らったものは一族郎党、それが女子供であれ容赦なく惨殺している。しかもその方法が残忍なことこの上ない。
 その最たるものが荒木村重の謀反への対処だ。有明城に籠もり信長に反旗を翻した村重は織田方に包囲され単身尼崎城に移動。すると信長は滝川一益に命じ有明城に残された妻女たち122人を尼崎近くの七本松で磔にし、さらに下男下女500人余りを焼き殺させた上、村重一族と重臣の家族36人を京都に護送させ、大八車に縛り付け京都市中を引き回した後、六条河原で斬首させた。
 その様子を「かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也」と「立入左京亮宗継入道隆佐記」は記しているほどで、これほどの残虐非道な行為は後にも先にもない。
 これに比するのはナチスのユダヤ人に対するジェノサイドぐらいで、プーチンがウクライナで行っている病院や学校施設、ショッピング施設に対するミサイル攻撃がそれに続くぐらいなものだ。

 とにかく信長ほど残虐非道な男はいない。浅井・朝倉勢との戦いに勝利した翌年の正月、各武将を招いた戦勝記念の宴席で浅井久正・長政父子、朝倉義景3人の頭蓋骨に漆を塗り、その上に金粉を施したもの(薄濃)を一堂に披露し酒を飲み交わしたのだから、とても正気の沙汰とは思えない。鬼神にも勝る。
 この少し前、信長暗殺未遂事件が起きている。金ヶ崎の戦い後、体勢を立て直すため京から岐阜へ戻る途中、狙撃されたのだ。発射された銃弾2発はわずかに信長を逸れた。射撃の名手と言われていた杉谷善住坊は捕らえられ、信長の命で首だけ出して土中に生き埋めにされ、その首を竹製の鋸で切らせた。

 信長のこうした行為は「革命児」「自由市場」「国際性」などの、ある意味都合がいい言葉で殊更光の部分を強調することで負の側面を語らず、目を瞑るのは日本人の悪い癖であり、そうした世論形成に肩を貸した歴史家にも大いなる責任がある。
 もし、信長が本能寺で明智光秀軍に討たれず生き残っていたら、その後の日本は、あるいは中国への侵攻も考えていたようだからアジアはどうなっていただろうか。世界史は明智光秀に感謝すべきかもしれない。
                           (2)に続く


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