近くで鶯の鳴き声がする。まるで私の帰省を歓迎してくれているかのように「ホーホケキョ、ケキョ、ケキョ、ケキョ」と朝から夕方近くまで鳴いている。
前回の帰省から2か月程度しか経ってないというのに庭の雑草は伸び放題。雑草に混じってドクダミの花が咲き誇り、花壇は雑草に占拠されて花はほぼ壊滅。新しく花を植え直すかどうか迷いつつ、向かいの家に向かった。
その家の住人は10年近く前に奥さんを亡くし、以来寡暮らし。時々農作業に出かける以外は広縁に椅子を置いて腰掛け、日がな1日外を眺めている。
豊かさの代償で手に入れたもの
寺山修司が何かの本で次のようなことを書いていた。「私に話しかけて下さい」と書かれたボードを首から下げて、公園で1日中腰掛けている老人達がいる、と。
豊かさの一方でコミュニケーションを求める孤独な老人達。寺山が見たのは60年代のアメリカの光景だが、いま同じような光景が日本でも中国でも見られる。首からボードこそ下げてはいないが、誰かに話しかけてもらうのをじっと待ち望んでいる孤独な老人達。
社会は豊かさの代償に、他人への関心、コミュニケーションを失ったようだ。そしてその傾向は今後弱まるどころか、むしろますます増殖していく傾向にある。コミュニケーションツールが増え、人々を「内」に閉じ込めだしているからだ。
人々の関心は身近な距離から、はるか遠くの出来事、それは往々にして海を越えた向こうの出来事であることが多いが、それらを掌を見詰めるだけで手に入れるようになり、それが視野の広がり、グローバル社会との繋がりと感じている。
一方、身近な情報はわずか数10メートルの距離でも行動しないと得られない「煩わしさ」と面倒臭さを伴っており、しかも得られる情報量ははるかに少ない。
どちらが効率的かと言えば明らかに前者だし、情報の有益さから言っても前者だろう。
かくして、人は非効率なことを避け、ますます「内」に閉じこもり、そこから「広い」世界を見詰めようとする。こうした傾向は「不便な」地方より、「便利な」都会ほど顕著である。
「きれいですね。この花、なんという名前ですか」
向かいの庭先に植えられている黄色い花を指して問うより早く、こちらの姿をガラス越しに認めた住人が広縁のサッシを開けて出てきた。
「なんとか言うんじゃけどなんじゃったかいな。これな、どえらい強くてすぐおごるでな。持って帰りんさい。すぐ根付くで」
すぐ側に社協の建物や中学校があるとはいえ、この家まで立ち寄って話す人はいない。同じ一人暮らしでも寡と寡婦では人の寄り付き方が違う。寡の方にはなぜかあまり人が寄りたがらない。部屋が散らかっている、こぎれいな格好をしていないというような一般的なイメージが邪魔しているからだろうか。実際には男の一人暮らしの方が不自由しているはずなのだが。
そんな思いもあり、帰省中、私は努めて向かいの住人に話しかけるようにしている。一種の安否確認みたいなものだが、こちらも一人で家にいると今日1日誰とも話さなかったということになり、認知症への不安が過る。そういうわけでは向かいの庭を覗いて会話をするのは相手のためだけでなく、こちらにとっても一石二鳥の効果がある。そして時には今回のように花をもらったり、玉ねぎや白菜をもらったりという実益もある。
不自由な生活を楽しむ
若い頃(といってもそう昔のことではないが)は田舎の生活は嫌いだった。生活が単調で刺激がなさすぎる。昔ほどではないが、やはり都会に比べれば店にモノが少ない、というか選択肢がないから、結果として物価も若干割高になる。交通の便が悪い代わりに、人間関係が濃く、プライバシーがあるようでない。
こうしたことが嫌いな理由だったが、いまや田舎といえども電話は光ファイバー回線が市内全域に敷かれている。当然、ネット環境は快適だ。
車で10分余り走れば食品スーパーや家電専門店、ホームセンターがそれぞれ複数店舗あるし、高速道路を使えばイオン大型店まで15分余りで行ける。
家から高速道路ICまでが近いこともあり、姫路、鳥取、岡山市まで1時間余りで行けるという足回りは福岡に居る時よりいい。ただし、こうした便利さは「車があれば」という前提で成り立つことであり、車がなければ何をするにも不自由、不便な場所に一変するが。
今回、この便利な条件を1つ変えた。固定電話を解約したのだ。すでに1年前にインターネットのプロバイダー契約は解約していたが、今回、電話回線も解約した。すでに数年前から電話が使われることはなかったし、母も3月に亡くなり、固定電話が使われることはますますなくなったからだ。
結果、帰省中インターネットに接続する機会が激減した。どうしてもインターネットに接続しなければいけない時は車で近くのセブンイレブンまで出向き、そこの無料WiFiに接続している。
まあ、そんな面倒なことは極力したくないからどうしてもデジタル離れになる。代わりに増えたのが手紙と電話。メールのような手軽さはないが、相手との距離感がまるで違うことも実感した次第である。
嫌いな田舎生活が好きに
以前、嫌いだった田舎生活が最近気に入っている。1年前、福岡に引き取った母も亡くなり、帰省する理由もなくなったが、それでも以前と同じように数か月に一度帰省し、誰もいない家で1週間程度滞在している。できることなら、このまま田舎の家で生活したいとさえ思いだしている。
田舎生活のどこが気に入っているのかと自問自答して分かったことが一つ。静かな環境と広い空間だ。家は古いが室内外の空間が広く、そのことが落ち着きを与えてくれる。個人的に最も好きなのは実家の風呂だ。マンションのユニットバスの3倍はある広いスペースはなによりリラックスできる。
どの部屋に行くにも段差があり、歳を取り足元が覚束なくなると室内を歩くにも注意が必要だが、いまのところはまだ大丈夫。多少の不自由さより開放感の方が勝り、田舎の家にいると生き返ったような気持ちになる。ただし、冬の間は逆の気持ちになるが。
田舎が嫌いだった理由の一つに濃い人間関係もあった。監視カメラで常に「盗撮」されている都会よりマシかもしれないが、田舎ではプライバシーはあってないようなものだ。何時ごろ起きて何をしているか、いつ誰が訪ねてきたかなどが全て把握されている。都会の「隣は何をするものぞ」の無関心も困るが、関係が濃い過ぎて生活が筒抜けなのも困る。
だが近年の過疎化で、町内の世帯数も減り、隣家との距離も物理的に開き出し、そのことが濃い過ぎず、薄過ぎないちょうどいい距離感を生み出してきた。過干渉と無干渉のちょうど中間というか、付かず離れずの距離感が保たれるようになり、それが心地いいのだ。
例えば向かいの家との関係。広縁に腰掛けいつも外を眺めているので、いちいち挨拶しなくても私がいつ出かけたのかを知っているし、留守中誰かが訪ねて来ても、それが不審な人間かどうかまで含めチェックしてくれている。
いうなら人間セキュリティーシステムみたいなもので、実はそれで随分助けられている。ある時などは大阪の従弟が偶然、何の連絡もなく訪ねて来たが、「先程出かけられましたよ」と教えられたようで、従弟から私のケータイに電話がかかってきて、無事会うことができたし、ある時などは見かけぬ人間がうちの家の方に歩いて行ったので、泥棒だといけないと考え、そっと後ろを付けて様子を見に行ったと後日教えられた。見守ってもらっているわけだが、昔なら「見られている」と不快感を感じたかもしれないが、いまは助けられていると感謝している。
都会で犯罪が増えているのは人が多すぎることにも原因があるのではないか。ある空間に必要以上に生物(人でも魚でもマウスでも)を入れると、ストレスでそのうちの何10%かが亡くなるということは実験で知られている。同じことは人間社会でも言え、近年の無差別殺人の起因はそのことと無関係ではなさそうだ。
|