ジャーナリズムの復権を
さて、この騒動に対するメディアの取り上げ方に問題があることは指摘した通りだが、それでもなおかつ分からないのは当初の疑問、なぜ、このタイミングで新垣氏は名乗りでたのか。何を問題にしているのか、という点だ。
ところが、思わぬことから背景が分かり、やっと納得した。「アエラ」が2月17日号に書いた「本誌が見抜いた佐村河内の嘘(うそ)」という記事だ。
同誌によると、佐村河内氏が「ヴァイオリンのためのソナチネ」という曲を義手の少女バイオリニストに贈り、そういうことも含めNHKスペシャルで放送されたらしいが、それに対し彼女の両親に佐村河内氏が謝礼をしつこく要求。両親が困っていると聞いた新垣氏が、実は自分が佐村河内氏のゴーストライターとして曲を作っており、彼女に贈られた曲も本当は自分が作ったと両親に告白。佐村河内氏がこれ以上彼女の両親に迷惑をかけるのを止めるために事実を明らかにするに至ったということらしい。
「アエラ」も昨年、佐村河内氏を取材していたようだが、曲作りの場面がどうにも腑に落ちなかったりした(瞑想していると音が天から降ってくる等々)ので、取材はしたものの掲載を見送ったとのこと。この辺りはさすがというか、これがジャーナリズムの基本だ。
美談は往々にして作り上げられるし、神がかり的な話ほど人は信じやすい。最初はあり得ないとばかにし、二度目は半信半疑になり、三度聞くと信じてしまう。
こうして人はヒトラーの演説に酔い、麻原彰晃の空中遊泳だか浮体を信じた。まともなジャーナリズムなら相手にしないはずが、毎日のように彼らを取材し、彼らの広報の役目を務め、情報を拡散してきたのに、相変わらず同じことを繰り返している。
デジタル社会はあらゆる仕組みを大きく変えたし、今もまだ変えつつある。情報は玉石混交で飛び交い、発信する方にも受け手の側にもスピードのみが重視されている。そういう時代だからこそ情報の質が重視されなければならない。ところが、そのための取材力も時間もなく、ましてや検証など出来るはずもない。
一方の受け手は短文、細切れ情報を喜び、長い文章など端から読む気もしない。これでは情報の真偽を見分けることなど到底できない。テレビが普及し始めた時「1億総白痴化」と言ったのは大宅壮一氏だが、デジタル時代になりいまや70億総白痴化。情報を見分ける選眼力こそが必要だが、悪貨が良貨を駆逐すると言われるように質の悪いものの方が広がっていく。
となれば、やはり発信側にジャーナリズムの復権を求めるしかないが・・・。
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