言葉は生き物だから使わなければどんどん忘れ去られ表舞台から消えていく。辛うじて時代小説や文学の中に時折顔を出すものはまだいい方で、辞書の中だけが存在場所になっている言葉も結構ある。
ところが、ある時思わぬ形で脚光を浴び、年末恒例の「流行語大賞」候補に躍り出たりすることもあるから面白い。「忖度」は間違いなくそんな言葉の一つだろう。
「忖度」。なんと読むのか、漢字をよく間違える麻生元総理に聞いてみたい気もするが、「そんたく」と読めるのはTVのお陰で、いまでは日本全国で知らない人はいないほど有名な言葉になった。こういうことでもなければ人々の口の端に上ることなどなかったに違いない。そういう意味では今回、政治が果たした役割には大きいものがあった。
さて、改めてこの言葉の意味を広辞苑で調べてみると次のように書かれている。
「“忖”も“度”もはかる意。他人の心中をおしはかること」
なるほど、誰かからの指示があって、指示を受けて、何かをするのではなく、こうして欲しいのだろうと、相手の「心中をおしはかり」行うわけで、推し量られた側からすれば「何かを指示したわけではない」と安倍総理が言うのはもっともだろう。
では、本当に指示はなかったのか。直接的な指示がなかったのは事実だろう。しかし、指示はなかったが、そこに意思は存在した。そうして欲しい、そうなった方がいいという意思、思いをそれとなく、相手に伝わるように伝える。だから「忖度」できるわけで、そうした意思の片鱗も見えなければ「忖度」のしようもない。
ちょっと私的な話になるが、総務省や経産省、地方自治体主催の委員会メンバーになったことがある。その会議の席上、ある種の違和感というか疑問を感じたことがあった。
例えば霞ヶ関で開催された委員会。5、6人の委員で討議し、政策提言するわけだが、私以外の委員はいわゆる学識経験者。大方の委員は関東の大学関係者で、一人だけ神戸の大学助教授(当時)。そして福岡から出席した私。各委員の在籍地は重要な問題ではないが、面白いのは関西以西の2人が草案に異を唱える意見を述べたことだった。
まあ、それは別にして、この委員会に出席して分かったことがある。それは誰が委員長に選ばれているかで議論の方向が端から決まっているということだ。言い方を変えれば、あらかじめ決められた方向の(主催者の意に沿った)結論に導く人が委員長に選ばれているということだ。
それ以外の意見や異見は幅広い議論が行われたというアリバイづくりみたいなもので、そのためにちょっと毛色の変わった奴も委員に入れておこうというわけだ。最終的な政策提言にそうした異見・異論が取り入れられることはまずない。
地方自治体でも同じで、ベンチャーインキュベーションのオープンに合わせて公募したベンチャーの中から入居者を選ぶ選考会の席上、委員二人が次のように発言した。
「市としても成功例が欲しいでしょうから、すでにある程度成功しているベンチャーを1、2社入れておいた方がいいでしょう」
市の意向を推し量った「忖度」である。この委員二人は元官僚の大学助教授(当時)。この時は委員10人による採点制だったが、結局彼らの「忖度」に賛同する人達が多かったようだ。常に正論が通るとは思っていないが、これでは八百長に近い出来レースだ。
インキュベーションというのはこれから起業する、あるいは起業間もないベンチャーを入居させ、育成する目的の施設である。ベンチャーとはいえすでに独り立ちしている企業は、むしろインキュベーションから巣立つ対象で、入居の対象ではないというのが私の考えだが反映されることはなかった。
上記いずれの場合も、こうして欲しいという直接的な指示はなかったし、そういう言葉を発すれば言質を取られることにもなるから、自身の口から直接言うことはない。仮に、それに近い言葉があったとしても非公式な場だ。
日本には「あうんの呼吸」という便利な言葉がある。直接的な言葉にこそしないが、「分かるだろう」「分かります」と、互いの意思を感じあうのだ。この頃は「空気を読む」という言葉がよく使われるが、それも似たようなところがある。
「忖度」にしろ「空気を読む」ことにしろ、そのこと自体は悪いことではない。むしろ物事を円滑に進めたり、場の雰囲気を和ませる役割がある。控えめで、他と違うことをしたがらない日本人の性格が生んだ生き方と言ってもいいだろう。横並びが好きで、というか、他と違うことをすると目立ち、他のやっかみを買い、「出る釘は打たれる」のを嫌うからだ。
(2)に続く
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