100歩譲って、東電の責任追及とまではいかなくても、せめて東電内部の動きを描くことができなかったのだろうか。その点が残念でもあり、この作品を中途半端にしてしまったところでもあるが、現在の日本の権力構造を考えればそれはできなかった、それをすれば映画は陽の目を見なかったのだろうということはある程度想像できる。
むしろよくここまでの映画を作ったと制作に携わった人達の勇気と努力を讃えるべきだろう。それでも辛口を承知で敢えて言わせてもらう。東電内部の動きを描くべきだった、と。でなければドキュメントに徹した方がよかった。
一体いつになれば、日本はアメリカ映画のように権力の腐敗を突く作品を作れるようになるのだろうか。恐らく今後ますます難しくなるだろう。日本はアメリカに15年遅れて、その後を追随している。アメリカではジャーナリズムの役目は権力の監視であり、政府寄りと言われるワシントン・ポストでさえ政権内部の腐敗や権力による個人の人権侵害には厳しく対峙してきているが、日本の大手メディアにはそこまでの理念や意地はない。いわんや特定秘密保護法という権力者によってどうにでも解釈、適用できる法律の成立で、戦う前に自己規制する気配がある。
一方、政権側はメディアへの威嚇、牽制を強めている。放送法を盾にNHK、テレビ朝日を恫喝したのがよほど効いたのか、今回の参院選では政権批判的な報道はすっかり鳴りを潜めたのはその一例だ。
今後こうした動きはますます強まり、政権に都合のいい情報しか流せない、流れてこなくなるだろう。
「太陽の蓋」とは
最後に映画そのものではなく別の感想を。
3.11時の民主党政権の対応はまずかったのだろうか。こういう場合、ベストの対応というのは現実問題としてあり得ないだろう。どこかしら、なにかしら問題はあるものだ。だからベストではなくベターを我々国民側も求めるべきだと思う。その上で、ベターの範囲をどの程度までとするのかということになる。
歴史に「もし」はないが、それでもあえて問うてみる。もし、あの時、民主党政権ではなく自民党政権だったらどうだったのかと。長年、与党の座に居たから官僚の動かし方は、政権取り立ての民主党よりうまかっただろうということは容易に想像できる。さらに東電との関係ももう少し密接で、東電からの情報は民主党政権時より上がってきていたかもしれない。
しかし、東電の事故隠し体質は政権がどこであろうと大して変わりなかったのではないか。また仮に情報が官邸にもっと上がってきていたとしても、原子炉の電源喪失という事態は変わってないし、あの状況下で取り得る方法がそれほど変わったとは思えない。
むしろ与党、野党ということではなく、与野党挙げて、一致協力して事に当たるという体制が、この国にはできていなかったということで、そこを反省し、今後に備えて行くことが重要ではないか。
政権発足後、まだ国の動かし方を熟知していない民主党政権には東北大震災はいきなり襲ってきた大試練だったのは間違いない。もし、あの大震災が、原発事故がなければ民主党政権はもう少し長続きしただろうか。恐らく大地震や原発事故がなくても結果は変わらなかったに違いない。だが、次の選挙であそこまで大敗することはなかったのではないか。「太陽の蓋」を観終わった帰り道、そんなことを考えていた。
最後に「太陽の蓋」というタイトルの意味。「見下ろせないはずの太陽(エネルギー)を見下ろして蓋をしようとする人間」という意味らしい。う〜ん、想像力の乏しい私にはいま一つピンとこないが、こういう映画の場合、具体的に何かを指すタイトルより、少し抽象的というか、想像力を働かせられる、このようなタイトルの方がいいのかもしれない。
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