医師の価値観か、それとも歪んだ正義感か。(2)


効率主義が医療現場にも

 ここまでは担当医師と患者間の問題と言えなくもないが、その後の病院側の見解発表、記者とのやり取りの中に気になる部分がある。
 それは倫理委員会開催の問題だ。日本透析医学会では透析中止をする場合は倫理委員会の開催が望ましいとガイドラインで定めているし、延命治療を中止する場合などでも倫理委員会を開催して決めるのがルールになっている。それは死に直結する問題だからで、当事者だけの判断ではなく他の医師たちも交え広く意見を聞く必要があるからだ。これは故意に安楽死をさせるなどの行為を防ぐ意味もある。

 ところが同病院では2014年頃以降、倫理委員会を開いていない。その理由を「外部委員を呼ばなくてはならないなど、開くのに苦労する。1回ごとに開くのは非現実的だ」と同病院院長が述べているのが気になる。
 たしかに病院側にしてみれば倫理委員会の開催は時間的にも労力的にも大変かもしれない。だが、人命に関することである。それを「非現実的」と言う姿勢からは患者を人ではなく物と捉える効率主義的な姿勢を感じてしまう。

 危惧しているのは効率主義が昨今、医療や介護の現場に垣間見られる(控えめな表現で)ことだ。
 思い出して欲しいのは2016年7月に相模原市の障害者施設で入所者19人を殺傷した植松聖被告の事件。植松は「障害者は不幸を作ることしか」できないから「日本国と世界の為」に自分が行動を起こしたと嘯いていた。
 今回の件でも病院側の説明等の中に国の医療費の問題に触れた部分があった。病院や担当医師側を擁護する意見の中にも医療費問題を取り上げているのが目に付く。両者に共通しているのは効率主義で、それは植松被告の思考に相通じる部分がある。

 経済原則、効率主義は一見正しいように見える。だが経済優先、効率優先の思考に捕らわれると人は余裕をなくしていく。余裕がなくなれば他者への配慮がなくなる。他者に配慮することは非効率と考えるからだ。他者や違う意見を受け止めるより排除にかかる。そして自分なりの正義感を振りかざし、人としての倫理観を失っていく。その先に待っているのは・・・考えたくもないが。

 最後に私的な経験話を。
20年あまり前になるが、入院していた病室で父が亡くなった時のことだ。医師が病室にやってきて、もう脳死状態で、現在呼吸しているように見えるのは自力呼吸ではなく機械呼吸だから生き返ることはない。装置を外すかどうか考えてくれ、というようなことを言われた。まあ言葉はもう少し丁寧な言い方だったが。母と弟と私は顔を見合わせ、もういいだろう、と互いに頷きあった。こういう時は当然、母が言うものと待っていたが、母は一向に「機械を外してもらっていい」と医師に言い出せなかった。結局、私が医師に伝えたのだが、装置を外しても心電図の針がなかなか止まらず、「ご臨終です」と言おうと病室で立っていた医師は待ちくたびれた様子で一度引き上げた。
 これは私に暗い影を落とした。あの時、本当に装置を外してくれと言ってよかったのか。もしかすると父は蘇生できたのではないか、という思いがずっと付きまとった。

 もう1つは弟が膵臓ガンで亡くなった時だ。ガンと分かって半年ぐらいは「人間一度は死ぬんだから」と気丈に言っていた。その頃ある医師が書いた「私はがんで死にたい」という本を読んだりしていたから、達観しているのかと思ったりもしていたが、最期近くになると、もう少し生きたいと考えが変わったのを覚えている。
 この時、人の考えは変わるもので、その時々の言葉を信じてはいけない。本心は最後の瞬間に見えるということを体験した。

 同じようなことは遺言状にもある。遺言状は新しいものの方が優先されるのだ。
やはり今回の件では医師は最期に「透析中止を撤回したい」と訴えた患者と家族の意見に従うべきだったのではないか。そうしなかったのは国の医療費削減のためなどという歪んだ正義感がなかったと信じたい。

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