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社会の内向き化がもたらす危険性(1)
〜時代の変化を感じ取る歌とファッション


 社会が内向きになりだした−−。そう感じ出したのはもう随分前、40年も前のことだ。その当時は内向き社会がもたらす危険性をまだ十分に認識していなかった。ただ、なんとなく社会や他者への関心が薄らぎ、自分の手が届く範囲のことが最大関心事になってきているようだという認識程度しかなかった。
 その後、内向き化現象は加速度的に進み、いま、人々の関心は自分自身と、掌の中の世界にしかないように見える。この先に待ち受けているのは一体何なのか。我々はどこへ行こうとしているのか−−。

「反体制」から「マイン」に

 40年前にはスマホはもちろん携帯電話も温水洗浄便座も、ウォークマンもなかった。車は「ケンとメリーのスカイライン」の時代だ。当時、生まれた子供はいま40歳。本来なら不惑の年齢だが、いまは8掛けか7掛け(精神年齢的には7掛けだろう)年齢としても身を立てる年齢である。
 ところが現実はどうだ。50歳でも不惑どころか迷いの真っ最中。70歳でも80歳前でも枯れるどころか元気一杯。それはいいことだが、「生き仏」と言われながらセクハラで訴えられるようでは呆れ果てる。週刊誌が「死ぬまでSex」という特集を組むくらいだから、近頃使うのは頭ではなく下半身ばかりのようだ。

 それはさておき、社会が内向きになってきたと初めて感じたのは井上陽水と荒井由実の歌だった。「世は歌につれ、歌は世につれ」と言われるように、歌は当時の世相を色濃く反映している。だから両者の思考が、というより時代が内向きになりだしたことを敏感に感じ取った彼らが、それを歌詞にしたわけで、彼らの感性の鋭さには敬服するばかりである。
 それにしても荒井由実氏の一連の歌詞には大いに驚いた。なかでも「ルージュ」の「ママに叱ってもらうわ」という下りには仰け反った。「おいおい、結婚した、いい大人がママに叱ってもらうだって。自分で直接、旦那に言えばいいだろう」と思ったものだ。いまでもこの歌を聞く度にそう思う。よくもまあ、こんな歌を歌えたものだ。松任谷由実氏はいまでもこの歌を歌えるのだろうか、それとも荒井由実だから歌えたのだろうか、と。

 同じような変化はファッションの世界でも起きていた。ファッションの主題が「マイン」になっていった。「マイン」つまり「自分」である。それまで(60年代後半70年代)のファッションは「反体制、反秩序」だった。既成の秩序に対する「アンチテーゼ」として主張していたのだ。
 だが「マイン」には「アンチ」がない。牙が抜かれたというか、自ら牙を抜いたというか、既成秩序に対し賛成でも反発でもなく「そっぽを向き」、ひたすら関心を自分自身に向け始めたのである。それはとりもなおさず社会に対する無関心を意味した。「あっしには関わりのねぇことでござんす」とニヒルに呟く木枯し紋次郎が流行ったのもほぼ同時代ではなかったか。
 それから少ししてウォークマンが流行り、若者は外界への交通を遮断し、ひたすら自分の世界に閉じこもるようになった。

 外界と関わることはたしかに煩わしさを伴う。一方、その煩わしと関わることで人との接し方を学んでいく。エチケットやマナー、言葉遣いを覚え、忍耐や妥協、協力関係を身に着けることで人として成長していくのだ。
 ところが、外界との接触を煩わしさととらえ、内に籠もるから歳だけは取っても内面は子供のまま。早い話が幼稚化である。
 こういう大人が増えているからやりにくくて仕方がない。ちょっと注意すれば、すぐ不貞腐れ、やる気をなくしたと反抗する。挙句の果てには「褒められて伸びるタイプですから」などとほざく。
 私などは学生の頃から反発心でやってきた方だから、逆に褒められるとそこで慢心してしまうから逆効果だった。比較的早い時期に組織人を辞めたからよかったが、そうでなければパワハラで訴えられるか、こちらの方がストレスで病気になっていたかもしれない。

 実は10年近く前まで、「時代」には修正作用があると考えていた。しかし、そうした考えは、あまりにも楽観的過ぎたと、ここ数年、考えを改めだした。「時代」の修正作用が一向に働かないどころか、「時代」は傍観者の役目を決め込んでいるようにさえ見える。まるで、この社会はどこまで行くのか見極めてやろうと思っているかのように。
                                                 (2)に続く



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