栗野的視点(No.681) 2020年4月20日
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武漢の「成功」に倣えは正しいか
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ミクロの視点では正しくてもマクロのレベルでは好ましくなることがあり、これを「合成の誤謬」と言うが、今回の新型コロナ感染症(COVID-19)でも同じことが起きてはいないかということを前回書いた。
第1ボタンは正しく掛けられたのか
今回はそのこととも多少関係するが、出発点の問題について考えてみたい。
シャツの第1ボタンを掛け違うとどうなるか。第1ボタンを第2ボタンの穴に入れても、その段階では大して変に思わないだろう。
第3、第4と掛けていき、第5とか第6辺りまでくれば、さすがにシャツの形が歪になり気付く。
これは最初の出発点がおかしかった、正しく掛けられていなかっただけで、ボタンが掛けられなかった(効果がなかった)わけではない。曲がりなりにもボタンは掛けられたのだ。つまり一定程度の効果はあったわけで、シャツの形は少々歪にはなっているが、絶対的におかしい着方というわけではない。
それと同じようなことが今回の「新型コロナウイルス騒動」でも言えやしないか。
はっきり言えば中国政府の取った武漢の都市封鎖は第1ボタンの掛け違いではなかったのかということだ。
もし、掛け違いだったら、その情報を受け止め、中国に倣った世界は間違いとまでは言わないが、あまりよくない前例に従ったことになる。
本当に都市封鎖以外の方法はなかったのか。もし、あったとすれば都市封鎖という方法にのみ頼ったことで、他の選択肢を切り捨てたことになるし、他の方法の方がよりダメージが少ないものだったら、その代償は非常に大きなものになる。
この場合の代償とは2つのことを指している。1つは経済的なことであり、もう1つは国の形のことであり、我々はいまその岐路に立たされているが、このことはまだあまり問題にもされてもないし、論じられることが少ない。
しかし、今回の「新型コロナ騒動」が落ち着いた時に我々が見る世界は大きく変貌している可能性は否定できない。
人は「ゆでガエル」状態に気付きにくいし、大きな危機に直面した時、個を犠牲にして集団の論理に帰属することに何ら疑問を感じなくなる。いや、進んで集団に帰属し、個を犠牲にしょうとさえすることがある。
しかし、ここでよく考えてみる必要がある。本当に中国が取った武漢の都市封鎖という方法は正しかったのか。あるいは他の方法はなかったのか。
当初、世界の見方は中国が取った方法に冷ややかだった。あんな強権的な方法は独裁国家だからできたことで、民主主義国では絶対できない、と。
ところが、どうだ。今多くの国が倣っている、倣おうとしているのは習近平国家主席が取った強権的な方法だ。
そしてそのことに異を唱えないどころか、早くそれに倣って都市封鎖に踏み切れという声すら出ている。その中には感染症の専門家と言われる人達も多く含まれているし、国や自治体のトップに「非常事態宣言」を早く出させそうとする動きすらある。
他国の「成功」事例に倣うのはいいことだ。ただし、それが本当に「成功」だった場合は。
中国が取った方法は武漢以外の都市に感染症を拡大させなかったという意味では「成功」したと言えるだろう。その一方でウイルス感染者を武漢内にとどめたことで、都市内部生活者はウイルス感染に曝され続け、国家によって「棄民」にされた。それでも中国14億人を守ったから「成功」と本当に言えるのだろうか。
100歩譲って他の方法が全くなかったのなら、やむを得なかったと言えるかもしれないが、中国の初期対応が誤っていた、適切でなかったために感染を拡大させた側面が強い。 (2)に続く
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