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自分しか見ない・見えない超自分主義の人間が激増


 近年、自分のことしか考えない超個人主義(というより超自分主義)がはびこっている。こうした現象は年々増え続ける傾向にあり、いまや国内だけでなく世界的に超個人主義に陥っている。それでも日本人は外国人から見るとマナーを守る民族らしいが、一昔前と比べるとマナーを守る態度は雲泥の差である。

 例えば交通ルール。いまや信号が青でもうかうか進めない。赤信号で突っ込んで来る車は多いし、右左折時にウィンカーを出さない車もいる。これを高速道路でやられると危険極まりない。
 自転車やバイクに至っては信号がない交差点はもちろん、信号がある交差点でも赤信号にお構いなしで進むものだから危なくて仕方ない。自転車の人身事故が増えているのも納得できる。
 交通マナーが悪いのは女性、それも軽自動車に乗っている若い女性に多いが、このことは未来に暗い影を落としている。

 もう遠い過去のような気がするが、かつて日本人が順法精神に富んでいた時代があった。
「日本人は車など走ってない田舎道でも信号が赤なら青になるまでじっと待っている。ニューヨークでは赤でもどんどん進む」と笑われる程、順法精神が行き届いていた時代があった。
 「もう」というか、「わずか」というか、30年程前のことである。今となればあの頃が懐かしいが、その頃までの日本人は「天知る、地知る、我知る、人知る」と言い、誰も見ていないと思っても天地の神々は見て知っているし、自分も知っているから、やがて人々の知るところになると言って不正を戒めたものだ。
 それが今はどうだ。誰も見ていないのにルールを守るのはバカらしいという風潮だから恐ろしい。何が恐ろしいかと言えば、こういう風潮が蔓延すれば誰もがルールを守らなくなるからで、犯罪が助長される社会になる。
 すでにその傾向は強く、見られていなければ(見られていても)何をやってもいいと考える輩が増えている。「お天道様」はこの地上から消えてしまい、この世は闇が支配してしまったようだ。

 毎朝6時前後からウォーキングを始めて1か月近くになるが、早朝歩いていると色んなことを発見し、色んなことに出くわす。つい先日、公園周囲を歩いている時、ビワの実をもぎ取っている人達に遭ったが、私の顔を見るなり「鳥の餌になっているんですよ」と弁解したのには驚いた。「それ、よそのものじゃないのか」と詰問すると「はいそうです」。「よそのものを盗ってはいかんだろう!」と注意したが、相手は70代と思しき人達3人組。もう老いも若きも関係ないようだ。
 ちょっと前までなら年配者が勝手に他人の土地に成っているものを盗るなど想像もできなかったが、いまや悪びれる風も見せず「鳥の餌になっているのだから取っても問題ない」と思っているわけだ。その感覚が恐ろしいというか時代を表していると思うと背筋が寒くなる。
「他人のものは自分のもの、自分のものは自分のもの」という風潮が蔓延しているというか、内と外との境界がなくなってきたことが原因。より正確には、境界がなくなったわけではなく、内界が外へ拡大した結果、外界が小さくなり内と外の境が見えなくなったためである。故に、罪の意識はほとんどないか非常に薄いのが近年の特徴だ。

 一般社会はもとより犯罪を取り締まる側から政治の世界まで、誰も彼もが自らの欲望の赴くままに動いている。性的被害の相談に行った警察署でセクハラを受け、政治家は弱者の味方どころか強者、身内の利害代弁者に成り下がり、癌になれば「働かなくていい」と罵られ、面の皮厚い答弁で、公人、私人を使い分け、政府職員をお供に付けながら「妻は私人」だからと参考人招致にも応じようとしない。
 一体、こんな政治家のどこを信じればいいのか。それとも支持する人は森友や加計のように何かを期待しているのだろうか。
 もはや世界中どこを探しても清廉潔白や公明正大、自由、平等、正義などは言葉とともにその概念までも崩壊してしまっている。我々はとんでもない時代に生きているようだ。

 いかなる物事も最初から大きく現れはしない。初めはごく小さな出来事や現象として現れ、それがやがて数が増し、勢力を拡大し、大きな現象として誰の目にも明らかになる。しかし、そうなった時はすでに遅しで、もう引き返すことも、正常に戻すこともできない。故に、いかに小さな現象段階で発見し、是正していくかしかない。

 人は何かを手に入れるために、何かを失っていく−−。デジタルは人の思考をあれかこれか、イエスかノーかに2元化し、あれでもこれでもない第3の選択肢をなくし、思考を単純化、スピード化した。その結果、人は考える(思考する)時間をなくしてしまった。
 やがて「考える」という行為そのものがなくなり、考えることは無駄なことと思われていく。「考える」より「検索する」方がはるかに速いし、答えも簡単に見つかってくる。近い将来、後20年か30年もすれば、「考える」とは「検索」と同義語になっているだろう。
 いや、すでに時代はその入り口に立っている。話をしていても、ドラマを見ていても、目の前の相手はテーブルの下でスマートフォンを操作し、あらすじや登場人物の名前やプロフィール、ほかの出演作など話の本筋にとってはどうでもいいことを検索しているか、届いたメールを読み、それに返信している。なんとも味気ない時代になったものだ。

 超自分主義は超自己愛という形でも現れる。男性の場合は自己欲という形を取る。周囲が自分を評価してくれない、本当の自分はこんな人間ではない、と考え、それが他者への僻み、嫉み、恨みとなって現れたり、その逆に他者への強権的態度となるというのはよく報告されている。
 女性の場合は自分の顔への関心だろう。観光地などでよく目にする「自撮り棒」を前に突き出し、ひたすら自分を撮り続けている女性は多い。それも同じ場所で何枚も何枚も。彼女は自分のこと(顔)しか関心がないように見える。でなければ、その場所をいつまでも独り占めにせず、他の人に譲るだろう。

 こういう女性が増えると未来に暗い影を落とすと書いたのは、女性は母(父ではなく)になるからである。(母にならない選択肢を否定しているのではないので
、念のため)
 動物は母系家族(もし、それ以外があるとしても少ない例外を除き)であり、子供は母親から様々なことを学び、受け継いでいく。近年、変動しつつあるとはいえ、人間社会も例外ではない。それだけ母親が子供に与える影響は大きいのだ。にもかかわらず、交通ルールや社会ルール、マナーを守らない女性達が増えていけば20年後、30年後の社会がどうなっていくかを想像することは難しくない。
 それ以上に問題なのは政治、教育、宗教、企業活動などあらゆる分野で、範を垂れるべき大人が減少していることの方が大問題だが。


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