現代は不寛容の時代、とは以前にも書いたが、そもそも寛容とは人を許し受け入れることだから、現代は人を許し受け入れない時代ということである。これが個から地域、国へと広がっていくと、諍いから争い、戦争になる。
では、何を許さないのか、受け入れないのかというと、相手の考え方や習慣だったり、宗教、文化だったりする。ひと言で言えば、互いの常識が違い、違いを違いとして認め合って共存しようとするのではなく、相手の常識を認めず、自分の常識を相手に押し付けようとすることから起こる。
「グローバル化」ということが近年しきりに言われるが、グローバルとはどういうことなのか。国境を超えて、人、モノ、カネ、情報が行き来することなのか。それだけではないだろう。真のグローバル化とは、違う社会、違う常識、違う文化を尊重し、認め合うことではないのか。
個性を尊重し、認めてはじめて共通する所、共有できる所も見えてくるはず。それなのに近年は違いばかりを強調し、相手を認めようとしない。自分が、自分がいる組織・地域・国こそが素晴らしく、その価値観を相手にも押し付けようとする。一体、いつからこの国は、世界は、こうなってしまったのか。視点を変えれば違うものも見えるはずなのに。
身長差で料金が決まる
ところで、我々がいま常識と考えていることは本当に常識なのだろうか。例えば人は右、車は左側通行というのは、この国の常識である。しかし、逆の国もある。郵便ポストの色も国により様々で、アメリカは青、中国は深緑、イギリスは日本と同じで赤だ。
警察も救急車も、火事の時に電話する番号も国によってまちまち。世界統一にしてくれれば便利なのにと思うが、まだそうはならない。
だからといって怒る人はいないだろう。なぜ、誰も怒らないのか。寛容だからか、その程度のことは仕方ないと認めているのか。
このように我々にとっての常識が他所の地域、国では常識でないことがある。
では、入場料はどうだろう。大人と子供で入場料を分けている国が大半だが、そうでない国もある。大人と子供の分け方以外にどんな分け方があるだろうか。
その前に、なぜ大人と子供で料金に違いを付けるのか。どういう根拠でそうしているのか。恐らく理解力の差が料金の差になっているのだろうということは察しが付く。
映画館とか美術館、博物館などは、それで説明が付くが、動物園や水族館はどうだ。大人と子供で理解に差があるとは思えない。あるとすれば見え方の違いぐらいだろう。
幸い私の場合は身長が高い方なので、人の後ろで見えなくて困ったという経験はあまりない。だが身長が低い人は不公平を感じるかもしれない。ならば、身長に応じて料金を変えてもいいかも分からない。その方が公平というものだろう。
実は身長差で入場料を決めている国がある。
私が初めて中国を訪れたのは1978年。その時、北京動物園のチケット売り場で目にしたのが「3市尺以上の児童は○○」「3市尺以下の児童は無料」と書かれた看板だった。「3市尺」とは1mのことだから、身長1m未満の幼児は無料ということだ。さしずめ日本では満○歳未満の幼児は無料と表示するところだろうが、年齢でなく身長で分けたわけで、たしかにこういう判断基準もあるなと納得したのをいまでも覚えている。因みにこの料金表示はいまでもよく見かける。
体重別運賃の導入
身長差による料金設定があるなら体重別料金もあっていいだろう、その方がはるかに合理的だと思っていたら、体重別料金を実際に導入したところがあった。南太平洋のサモア航空である。「航空運賃の公平性を期す」ために、この運賃体系を導入したとのこと。
「すべての乗客が同じ体形ではないことを考慮しなければならない」し、「運賃は体重と荷物によって決まる」。
まさに納得。機内持ち込み荷物に重量制限があり、郵便物、貨物等、運搬するものはすべて重量で料金が変わる。変わらなかったのは人間の運搬のみだ。それでも子供運賃は半額だ。なぜか。席は子供であろうとも大人と同じように1席取る。にもかかわらず運賃半額というのは重量の問題だろう。ならば重い人の運賃は増加して当然だ。いや、増やすべきだ。それが公平である。
数年前、福岡の街でタクシーに乗って乗務員と会話し、こんな話を聞いたことがある。相撲取りを2人乗せたところタイヤがパンクしたことがある、と。その時は巨漢力士2人だった(力士名を聞いて納得)が、そこまでの巨漢でなくとも車の前輪が浮く感じにはなると言っていた。
飛行機で隣に太った人が座ったため、とても窮屈な思いをしたというような話はよく聞くし、乗務員に交渉して席を変えてもらったとか、損害賠償請求をしたとかいう話もあったように記憶しているが。
ともあれ、すべからく乗るものには、エレベーターであれ船であれ、重量制限が設けられている。
では、なぜいままで体重別運賃制度がなかったのか。昔はいまほど太った人がいなかったからだろう。
ビジネスチャンスは常識にとらわれているところからは生まれない。一度、視点を変え、常識の判断基準を見直してみてはどうだろうか。案外面白いかもしれない。
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