マラソンか駅伝か、と問われれば、私は駅伝がいいと答える。 マラソンが1人で42.195kmを走る孤独な競技なのに比べて、駅伝は次の走者にタスキを渡しながら走る団体競技である。 1人が受け持つ区間は5〜20km。その距離を全力疾走すれば、あとは次の走者に託すところがマラソンとは違う。
駅伝は古代に栄えた交通・通信制度で、中国では春秋時代に生まれ、モンゴル帝国が制度として帝国内に導入した。ヨーロッパではローマ帝国が駅伝制度を完備し、帝国の隅々にまで指令が行き渡るようにするなど、古代の交通・通信手段として大いに活用されたが、近代通信手段の発達とともに世界から消えた。
競技としての駅伝が最初に行われたのは1917年、京都三条大橋〜上野不忍池間である。 世界中に駅伝制度があったにもかかわらず、競技として残ったのはなぜか日本だけである。 最近は国際大会も開かれるようになり、「エキデン」として知られてきたが、日本で復活したのは、団体戦が得意な日本人に向いていたからと思われる。
ところが60年以降、日本社会が急速にアメリカナイズしていくと、それまで得意としていた団体戦から個人戦へ、個人も組織も移り始めた。 その傾向はバブル崩壊以降、特に顕著に見られ、スポーツにおいても社会生活においても自己中心的な個人主義が幅をきかせ、「協力し合う」「助け合う」といった、本来、日本社会が持っていたいい面が失われていったのは残念でたまらない。
この傾向はスポーツの世界で先に見られた。 例えばオリンピックでは、それまで日本が得意としていた団体戦でメダルが取れなくなった。 しかし、アテネで見られたように、スポーツの世界は一足早くチーム力を取り戻したようだ。 だが、一般社会ではまだ自己中心的な個人主義が幅をきかせている。 とりわけビジネスの世界では相変わらずというか、ますますというべきか、長引く不況の影響もあり、自分のことしか考えない人達が増えている。
私は小さなNPO組織の代表を務めているが、メンバーにお願いしているのは全行程を1人で走り抜くマラソンではなく、受け持ち区間だけを走る駅伝である。 途中で疲れることもあるし、休みたいこと、仕事の都合である期間参加できないこともあるだろう。 そうした時、マラソンなら途中で棄権するしかないが、駅伝は自分の受け持ち区間だけを走ればいい。 疲れたら一時休んで、また参加すればいいのだ。
福岡の博多地区には「祇園山笠」という祭りがある。 締め込み姿の男達が1つのヤマを担ぎ町中を走る抜ける勇壮な祭りである。 ヤマを担いでいる男達の周囲にはその何倍かの男達が伴走していく。 そして担ぎ手が疲れたら途中で入れ替わるのだ。 その間、ヤマは止まることがない。 福岡の人達には駅伝と言うより山笠方式と言った方がイメージしやすいかも分からない。 駅伝にも山笠にも共通することは、全行程を走り抜く必要はないが、受け持ち区間は責任を持ち、全力で走るということだ。
博多地区の男達は山笠で礼儀作法や責任感を教えられたとよく言う。 その博多地区はいま人口減でヤマの担ぎ手が減っているらしい。 そのことと関係があるのかないのか、福岡でも利己主義的・個人主義的な人達が増えてきたように思う。 せめて自分の受け持ち区間は責任を持ち、全力で走ってもらいたいものだ。 それが人間関係の基本ではないだろうか。 04.09.21 |