最近、医師の犯罪(?)が増えている。個々の犯罪について言及するつもりはないが、背景には倫理観の欠如、人間性の欠落がある。
これは何も医師に限ったことではなく、現代社会が共通して抱える問題だと思うが、本来なら高い倫理観、人間性が要求される職業の人にそれらが急速になくなりつつあることが問題である。
だが、明らかに法に抵触するものは論外として、犯罪と言い切ってしまっていいかどうか微妙なものもある。
例えば今回、富山県・射水市民病院で起きた安楽死(?)事件である。
外科部長が末期患者の人工呼吸器を取り外し患者が死亡した事件だが、似たような事件が近年続いている。2年前には北海道羽幌町の道立病院で女性医師が無呼吸状態の男性患者(当時90歳)の呼吸器をはずし死亡させた事件が記憶に新しい。
尊厳死事件に見る共通点
両者の間にはある種の共通点がある。
まず両医師とも信念(?)を持って行っていることである。つまり、両者ともに犯罪を行っているという認識がない。むしろ善行をしている意識があったようだ。
もう一つは患者が高齢者である点である。
さらに付け加えるなら富山、北海道という雪深い地、それも過疎の町で起きているという点である。
私はこの「事件」を知った時、姥捨て山の話を連想した。
両医師に、そんな意識は皆無だったと言い切れるだろうか。恐らく顕在、潜在は別にして、意識下にはあったのではないかと思う。とすれば、この事件は単に両医師の個人的な問題では済まされず、根はもっと深いところにある。
次に、意外と見落とされがちだが、射水市民病院の医師が50歳、北海道立病院の医師が34歳と共に若い医師だということである。射水市民病院の外科部長は50歳だが、10年前から行っていたらしいから、10年前は40歳である。
両者の違いは数である。10年間にしろ7人という人数は多い。仮に射水市民病院の医師が言うように「患者さんのための尊厳死」のために実行したとしても、初めて行うときは随分葛藤があったはずである。
ところが2件、3件と増えていくと、途中から心の葛藤はなくなる。代わりに芽生えてくるのが、自分の行為に対する正当性である。
これが怖い。独裁者に繋がるからだ。
もともと医師は医療現場では独裁者たりえるし、そうである人が多い。少なくとも医療現場では圧倒的な強者である。それが人の生命をも操作する独裁者になるとしたら、こんなに恐ろしいことはないだろう。
「家族の希望」の裏に潜むもの
ただ、問題を複雑にしているのは患者あるいは家族の同意の点である。
人工呼吸器を必要とする末期患者が尊厳死を望むと望まないとにかかわらず、自ら意思表示することは不可能に近いだろう。せいぜいそうなる前に意思表示しておく必要があるが、恐らくその段階で自らの死を現実の問題として考えられる人は少ないのではないだろうか。
となると、あとは家族の同意しかないが、これがまた難しい。
カルテには「家族の希望」とあったらしいが、この「家族の希望」というのがどこまで本当なのかが分からない。今回も同意書は取り付けてなかったし、恐らくどこの病院も現実問題として同意書にサインさせていないだろう。仮にあったとしてもその数は極少ないに違いない。
実際、私の父が亡くなった時も同意書にサインなど求められはしなかった。
父の最後が近いことは家族の誰もが薄々理解していた。
すでに父の体には様々な機械が付けられていた。
「呼吸をしているように見えますが、機械の力でしているだけで、もう自己呼吸はありません。すでに脳は死んでいる状態で、いまは機械の力で心臓が動いているだけです。機械を外せば心臓もすぐ止まります。あとはいつ機械を外すかだけですので、お考えください」
そんなことを医師が言った。
その時、私達は医師から選択を迫られたと感じた。このまま植物状態でも生かし続けるのか、それとも生命維持装置を外すのか、と。
たしかに母も看病で疲れていた。これ以上看病が長引くと母が倒れる危険性もあった。それで弟と3人で話し合い、装置を外してもらうことにした。
しかし、装置を外しても医師が言うようにすぐ心臓は止まらなかった。心臓の動きを表すオシロスコープの線は最後まで平らにならなかったのだ。あまりの時間に臨終時間を宣言するために待ち構えていた医師が一度病室から出て行ってしまったほどだった。
この時間の長さは本当に辛く苦しかった。もしかすると生命維持装置を外したのは間違いだったのではないか。父は本当はまだ意識があるのではないか。
まだそのままにしていれば、もしかすると蘇生したかもしれない。そんなことを考え、悔やんだものだ。もっというなら、私は父の殺人という犯罪に手を染めたのではないかと思いさえした。
現代版楢山節考と共犯意識
こうした私自身の経験からいっても、家族は最後の最後まで迷い続ける。だから「同意書」が存在しないのは当たり前だろう。
その一方で、植物状態で長く生き続けられるのは辛い、という家族の現実的な問題がある。はっきりいえば経済的な束縛である。特に過疎化が進んでいる地方では経済的な問題は深刻である。
つまり、家族は矛盾の中にいるのである。もはや民話と思われている「楢山節考」の世界が21世紀のいま再現されているのである。このことの恐ろしさが認識されていないことに、今回の問題の悲しさがある。
もし、医師が家族を取り巻く諸事情(主に経済的事情であるが)を考慮し、家族の裏に隠された気持ちを察し、代行したとすれば、実行者である医師だけを責めることは誰にもできない。それは我々自身がいつでも「残される家族」になる可能性があるからである。
一方、家族の方も「了解はなかった」と単純に医師を責めることもできない。医師の間に暗黙の了解(共犯意識)が成立していたかもしれないからだ。
医師と家族が共犯意識を共有し、その罪の重さにこれから先ずっと苦しむことこそ、この問題を考えることに繋がるような気がする。
しかし、射水市民病院の場合、7件という数はやはり問題になる。
最初は家族の苦しみを見かねて、代わりに自分が老婆を背負って山に入る役目を引き受けたのかもしれない。だが、数を重ねるうちに「罪の意識」、矛盾の中に生きざるを得ない苦しみは次第に薄れていってはしないだろうか。むしろ、どこか事務的に行っていたとすれば、それは生命を自由にできるのは自分だけだという医師の傲慢、傲りだと思う。
普段の医療現場ではとても優しくていい先生が、ある場面では独裁者になることよくあるし、私自身そういう医師も目にしてきた。
我々に突き付けられた重く難しい問題
もう一つの背景は、医療現場の過重労働である。
医師も看護師も圧倒的に不足している。この傾向は国の財政が破綻する中でますます深刻になっている。そこに持ってきて医療に経済が持ち込まれている。病院は経営的に成り立つことが第一義に考えられようとしている。
もちろん、経済原則を抜きに医療を成り立てるべきだとはいわない。しかし、経済原則を第一義に考え出すことには大いに疑問がある。
地方と医療が現在抱えている問題を解消しないと、今後も「尊厳死」に名を借りた(というのは少し言い過ぎかもしれないが)楢山節考の世界はなくならないだろう。
今回の事件は医療現場に重要で、重く、かつ難しい問題を残した。
医療現場だけではない。我々すべての人間が「生きるとはどういうことか」「生命とは何か」という重く、難しい問題と真っ正面から向き合うことを求められている。
医療現場に従事するすべて人にこれだけはお願いしておきたい。
決して医師個人の問題にして逃げるのだけはやめて欲しい、と。
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