来年(09年)5月21日から裁判員制度が始まる。国民の司法への参加の名の下に、ある日突然、誰もが刑事事件の裁判員になるのだ。アメリカ映画でよく見る陪審員ではなく裁判員である。両者の決定的な違いは量刑まで決めるかどうかだ。果たして我々はその重荷に耐えられるだろうか。その時のムードに流されて量刑判断を誤らないだろうか。特にいまのように無差別殺人が多発する時に。
現状の裁判(裁判制度ではなく)に多くの問題があるのは事実である。時間が、というより年数がかかりすぎる裁判、保釈を認めず、見せしめ的な長期勾留・・・。
検事と弁護士が法廷の場で丁々発止にやり合うのは映画の中だけの話。現実にはそんな裁判は数少なく、多くは退屈な場面に終始する。退屈のあまり、居眠りをしているようにさえ見える裁判官もいる。
そんな司法のあり方を変えようと、次々に行われている司法改革。しかし、その割には知らない裁判員制度。そこで今回は裁判員制度導入の背景、同制度で何が変わるのか、何を変えようとしているのかを、弁護士12人を要し、九州ではトップ規模の法律事務所、萬年・山口法律事務所の所長、萬年浩雄弁護士に聞いた。
(聞き手:栗野 良)
裁判は調書引き渡しの儀式に過ぎない
−−まず、裁判員制度ができた背景からお聞きしたい。
萬年 ぼくは裁判員制度には消極的賛成派ながら賛成なんだ。なぜかというと、日本の刑事裁判は精密司法といって、捜査記録と裁判は被告人の生まれ育ち、犯行動機、犯行対応など細かく調べるわけで、これが日本の伝統的な刑事裁判のシステムといわれてきた。
だから、その反動として裁判官は公判廷で聞くよりは調書裁判、耳よりは目で理解する調書裁判に陥っていた。これが精密司法の弊害といわれていたんです。
「日本の刑事裁判は絶望的である」と故、平野龍一先生(元東大学長)が書いた論文が学会および司法界にものすごいショックを与えたんです。
それはどういうことかというと、刑事裁判というのは捜査機関が調べた調書を法定で裁判官に引き渡す儀式に過ぎないじゃないか、と。なんのために裁判をやっているんだということなんです。
裁判というのは法曹3者に被告人を交えて4者が丁々発止、法廷でやり合って裁くもののはず。ところが、実際には検事の起訴状は検察官の単なる主張に過ぎないではないか。
当事者主義というのは、弁護側は被告人の視点からこの犯罪はどう見るべきかと主張し、検事と弁護士の予断と偏見をバンバン闘わし、その両者の意見を聞きながら、真実とは何かを審判するアンパイアの立場が裁判官である。
平野先生はそれをダイヤモンドの輝きに例えた。ダイヤモンドは光の当たる角度によって輝きが違うように、検察官側が犯罪事実を見た輝きと、弁護側が見た輝きと、どちらの輝きが本当なのかを判断するのが裁判官で、それが当事者主義ということなのです。
−−いまの裁判制度は当事者主義に基づいているというか、建前上そうなっていると思いますが、その通りに行われていないことに問題があるということですか。
萬年 戦後の裁判は当事者主義が原則。その前は職権主義といって、分かりやすいのは遠山の金さんや大岡越前守のお白砂裁判。検事と裁判官が一人二役を兼ねているわけでしょ。
ところが、人間は果たしてそんなに器用なのか、やはり人間は弱いし、人を裁くのに神様じゃないのだから絶対的真実なんてありっこない、というのが職権主義の反省で、告発状は検事に任せて、検事が暴走してないかどうかだけのチェックを裁判官に任せればいいじゃないかというのが当事者主義の哲学なんです。
このように戦前と戦後では裁判制度の哲学的基盤が全く変わったのですが、現実は精密司法で、法廷は調書の受け渡しの場になっている。一体、弁護士は何をやっているんだ、となったわけです。
これが根本的な背景にあるわけです。それと人質司法の問題。
逮捕3日間、拘留が10日+10日で計23日拘留するのは当たり前という感じになってきた。それと弁護士も絶望感で起訴前弁護、いわゆる拘留するな、拘留取り消し、勾留延長反対という闘いを忘れているんではないか、ということなんです。
昭和20年代、30年代は拘留するにしても中々延長を認めなかった。拘留まるまる10日というのも中々認めなかった。殺人罪で起訴されていても盆、正月には保釈を認めるというのが昔はあった。それが保釈は認めない、拘留も自動的にポンポン20日間認める。これは何がきっかけになったかというと覚醒剤なんです。
弁護士の絶望感が背景に
−−保釈が認められず人質裁判といわれるようになったのは覚醒剤事犯がきっかけだと。
萬年 そう。これには法曹3者の絶望感があった。保釈をしたその日にまた覚醒剤を打っちゃう。そうすると俺たちは一体何をやっているんだ、と。それで覚醒剤についてはなるべく保釈は認めないという方向に暗黙の了解ができたわけです。それが他の犯罪にも拡張し、慣習化していった。心ある裁判官からは「弁護士は何をしているんだ。闘わないかんやないか」という声も聞かれた。それでぼくなんかが勾留理由開示請求を20数年前にやったときは皆先輩は「はるか昔にやったんだけどいまはどうすればいいのか分からん」と。やり方すら忘れている。学生運動の頃は皆バンバンやっていたけど、それ以来やめちゃったからね。
それと事務所に犯罪者が出入りすると事務所の品格を落とすというわけで、ベテランクラスになると刑事弁護をやめていった。それをやりかえようということで当番弁護士制度を福岡で作ったのが1990年。(※)
免田事件を含めて4大再審事件。死刑囚4人が死刑台から生還した。これで刑事弁護人とはどうあるべきかということが問題になった。4大再審事件は調べてみるとほとんど起訴前弁護をやっていない。法廷の儀式だけに終わっている。これは被告人の人権を形骸化しているではないかと。
調書裁判、人質司法を打破するためには陪審員制度を導入すべきであると陪審員運動を始めたんです。それがいつの間にか陪審員制度が裁判員制度になっていったんです。
※アメリカ映画などでは逮捕されるとすぐ「弁護士を呼んでくれ」というシーンがあるが、日本ではない。逮捕直後が最も不安だが、意図的に会わせないようにしてきた風がある。また、弁護士を呼ぼうにも普段から接触がある人は少ないので、誰に頼めばいいのかということさえ分からない。不安と孤独の中での長時間取り調べが虚偽の自白も生むことになり、そうした構造が冤罪事件を生んできたし、最近の例でも認められる。
以下、萬年弁護士の「当番弁護士制度について」という論文より関係箇所を引用。
免田、松山、財田川、島田の4大「死刑再審」無罪事件では、起訴前弁護がなかったか、あるいは、不十分なために冤罪事件の一要素となった。・・・こういう重大事件や外国人、少年事件の場合、はたして弁護士は被疑者側のアクセスを座して待ってよいのか。・・・冤罪を防止するためには・・・逆に弁護士の方から被疑者へアクセスするべきでないか、という発想のもとに福岡県弁護士会は「委員会派遣制度」を当番弁護士制度のスタート同時に発足させた。刑事弁護等委員会の委員が新聞などで重大事件、外国人、少年事件を探知し、被疑者の要請がなくても、委員会が当番弁護士を被疑者のもとへ派遣するシステムである。
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