物事を見たり考えたりする時に重要なのは視点をどこに置くかということである。
1つの視点からでは1面しか見えないが、視点を変えれば別の面も見えてくる。
だが、視点を変えるのは口でいうほど容易くはない。既成の概念、常識に捕らわれていたり、業界固有の考え方、過去のやり方などに捕らわれているからだ。
では、どうすればいいのか。
そのヒントになりそうなことを以下にいくつか挙げてみたい。
野草も立派な観光材料に
ちょうど今頃の季節、私は出合いを求めて各地を彷徨することが多い。
今年は九州より岡山県、兵庫県内を彷徨しているが、目当ては彼岸花だ。
彼岸花といえばほとんどの人が真っ赤な色を思い出すに違いない。
しかし、白色や黄色の彼岸花もあるから写真を撮っていても飽きない。
ところで、彼岸花を探して撮影をしているうちにあることに気付いた。
例えば、兵庫県の某町役場で彼岸花が咲いている場所を尋ねた時。
「えっ、彼岸花ですか。どこと聞かれても・・・、そこらかしこに咲いていますからねえ」
「それはそうですね。では、棚田で有名なところはありませんか。棚田の畦などに咲いているでしょ」
このやり取りで感じたことがいくつかある。
1.地方では彼岸花を野草としてしか見ていない。
野草で毒花だから、畦に生えていても稲刈り前後に草と一緒に刈り取ってしまう。
当然、観賞用という観点はなく、自生に任せている。
2.某町の棚田に彼岸花は咲いてないだろう。
棚田と彼岸花をセットでPRしようという視点はなさそうだ。
3.ひまわり畑やショウブ園は地域おこしの材料にしているが、彼岸花に対してはそうした考えもないのだろう。
実際、棚田百選に選ばれている棚田まで行ってみたが、彼岸花の姿はどこにもなかった。
一方、九州はどうかというと、福岡県にしろ佐賀県にしろ棚田百選に選ばれているところは皆彼岸花が咲き乱れていることでも有名だ。
そして彼岸前後ともなれば多くの人達が棚田と彼岸花の風景を見に訪れている。
浮羽町の「つづら棚田」や小城町江里山の棚田では赤い彼岸花だけではなく、白や黄色の彼岸花も咲いている。
このように同じ彼岸花と棚田に対しても視点が変われば扱いも変わる。
彼岸花=野草、雑草の類と見るか、彼岸花=観賞用の花と見て、集客の材料にするか。
その違いは外からの視点で見るかどうかである。
自然を武器にする発想を
では、棚田に彼岸花を植えれば集客できるのか。
答えはノーだ。
棚田と彼岸花をプラスしただけでは「魅力」にまでは高まらない。
集客できるぐらいの「魅力」を創り出すためにはプラスの足し算ではなく、掛け算が必要だ。
掛け算にするとは、弁証法でいう「量の変化が質的変化をもたらす」ようにすることである。
彼岸花も数が少なければ質的変化をもたらさない。
群生してはじめて「魅力」にまで高まるのだ。
圧倒的な数、九州一とか中国地方一というぐらいの数の彼岸花を群生させれば、質的変化が起こり、観光魅力として十分なものになるだろう。
ところが、質的変化を起こすほどの量的蓄積をしないところが多い。
はっきりいえば、中途半端な数で妥協してしまうのだ。
その結果、中途半端な集客しかできない。
重要なのは量的蓄積である。
これがあってはじめて質的な変化が起きるのであり、量的蓄積が中途半端では質的変化は望めない。
そのことを肝に銘じるべきだ。
不思議なのはヒマワリやコスモスに対してはこのことを適用しているのに、そのほかのものには適用しないことだ。
ここでも視点が既成概念に縛られ、視点を変えるのが難しいことが分かる。
ヒマワリ、コスモス=観賞用という既成概念、固定概念。
あるいは集客=イベントという既成概念、固定概念である。
実は有田焼で有名な佐賀県有田町に行き、感動したことがある。
県窯業技術センターが位置している辺りは少し高地になっているからか、木々の紅葉の美しさを感じた。
一帯は「絵になる景色」なのだ。
こんなにいい自然があるのに活用しないのはもったいない。
そう感じた。
ところが日頃、紅葉を見慣れている地元の人にとっては、それは日常の景色であり、感動すべき景色とは映らないことが多い。
ここでも視点が問題になる。
外部の視点で周囲を見回せば、新たな発見があるはずだ。
しかし、ただ発見しただけでは意味がない。
それだけでは何も変わりはしない。
次の働きかけこそがポイントになる。
こうしたこともキーワードに有田町で9月、11月、2月と講師を務めているので、続きはそちらの場で行うことにしたい。
有田窯業技術センターでの講演内容は下記ブログに掲載
「ジャーナリスト栗野の辛口コラム〜栗野的視点」の9月12日号
「”有田(焼)ブランドをどうするのか”」と題して講演」
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