「人のご縁です」−−。この人と話をしていると何度もこの言葉が口を突いて出る。会社がここまで来られたのも、不況の時期に仕事があるのも、OB人材を採用できたのも、皆「人のご縁」があったから、と言う。
この人とは長山鉄工所の2代目社長、長山貴昭氏(51歳)である。彼が社長に就任したのは2003年。それまで有限会社だった長山鉄工所の資本金を5,000万円に増資し、株式会社へと組織変更をしたのと同時だった。
いずれは跡を継がなければと考えていた。だから、高校を卒業すると同時に取引先でもあった享栄工業(現、株式会社アステア)に入社した。「3年間修行してこい」と父である先代社長から言われていたが、1年延ばし4年在籍した。「流れ作業を経験し、それから現場の治具組み付けを勉強」。その時点で帰ってもよかったが、「これからは設計が必要になる」と考え、設計の仕事を勉強するために1年延ばしたのだった。
貴昭氏が長山鉄工所に入社したのは84年。当時、同社は享栄工業の下請け仕事が「ほぼ100%」だった。1社依存体制は危険。新規取引先を増やす必要がある。社内でそう訴えたが、父親の正社長(当時)を始め社内で彼の声に耳を傾けるものは誰もいなかった。「仕事がないんなら分かるが、仕事はあるんじゃけん。なんで他の仕事までせにゃいけんのか」。そう言って、誰も相手にしてくれなかった。
先を見た経営をしろ、と言うのはたやすい。だが、大手企業と違い、中小企業は人的、資金的余裕がない。忙しい時はギリギリの少ない人員でフル稼働しており、時間に多少余裕がある時は資金的余裕がない。結局、いつまでたっても目先の仕事に追われている。いずこも似たり寄ったりで、これが中小企業の現実だ。
それでも彼は諦めなかった。一人でやるしかない。そう決心し、コツコツと営業に回り続けた。その甲斐があり、新規の仕事が少しずつ増えていった。「隠れて仕事をせえ」。古くからの取引先に申し訳ないという気持ちからだろう、昔気質で義理堅い先代社長からはそう言ってたしなめられた。それでなくても一人でする仕事、勢い帰りは夜遅くなる。「寝ずに仕事をしたこともあった」と振り返る。その分、家族には随分苦労をかけた、とも。
当初、同社は部品加工中心の仕事だったが、設計からできるという点が評価され、仕事の幅、取引先ともに着実に増えていった。小回りがきき、スピーディーな対応も顧客を増やす一因だった。「治具&機械のプロフェッショナル」を自認し、様々な専用治具や治具設備の設計から製造、組み付け、据え付けまで行っている。
「治具でこんな物が作れないだろうか。こんな治具ができれば、もっと仕事の効率があがるのだけど、というような相談を受けることは多いです。それと同時に当社の方からこんな治具に替えたらどうですかというような提案もしています。まず現場に出向き、ニーズを把握することが第一ですね。さらに作って終わりではなく、現場で取り付け、調整までしていますから、そうした点が他社との差別化につながっているのではないでしょうか」と長山貴昭社長。
この人と話をしていると「生かされている」という言葉が何度か頭に浮かんでくる。それは「人の縁です」という言葉と同義語かもしれない。企業経営者にしては珍しく欲を感じさせない人だ。年齢を考えれば、もう少し欲があってもおかしくはないが。
ただ、事業への目配りは常にしている。当初、2人で始めた設計部門もいまでは7人に増え、業務の中心を占めるまでになっているし、最近、バイオマスエネルギー分野で産学連携も始めた。同社の既存技術や製品と直接関係するものではないが、少し先を見越した分野への投資といえそうだ。
「どうしても視野が狭くなりがちですから、視野を広くする意味でもいろんなものに興味を持っておかないと」と言う。
連携した大学は福岡県の北九州市立大学である。なぜ地元の大学ではなく、九州の大学と、と問うと、またしても「人のご縁で知り合った」という言葉が返ってきた。
派手さはないが、人の縁、繋がりを大事にしながら、着実に業績を伸ばしている企業だ。
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