ステンレスの一大加工基地化を
「このエリアをステンレスの一大加工基地にしたいんです」
池田精工(株)の社長、池田晃の口調が一段と熱を帯びた。
「このエリア」とは岡山県北の津山市一帯のことである。かつての城下町という以外にさしたる産業集積もなかった山あいの街、津山市をステンレスの加工基地にしたいと池田が考えたのは、まだ元号が平成に変わる前の昭和の時代。会社を設立して10年経った頃ではなかったろうか。その頃は朧気にそうなるといいなという感じだった、と笑う。
ところが、その想いは平成9年に「津山ステンレスネット」という形で実現する。互いに加工工程は異なるがステンレス加工技術を誇る8社が集まり、共同受注グループを結成したのだ。つやま新産業開発推進機構、津山工業高等専門学校、岡山県産業振興財団と連携し、ステンレス加工に関する技術やビジネス情報の交換、技術者の育成などを目的に活動している。
「子供の頃から歯車の一部になるより会社を興したいという気持ちは強かった」という池田が帰郷して創業したのが昭和47年。仕事先を確保して独立したわけでも、仕事の明確な当てがあったわけでもなかったが、自ら「楽天的な性格」というように、「なんとかなるだろう」ぐらいに考えて起業したようだ。
というのも、当時、ステンレス配管製品の専門メーカー、オーエヌ工業の津山工場がすでに稼働しており、うまく行けばそこの仕事でもできるのではないかと漠然と考えていたからである。
ともあれ創業した時は旋盤1台。津山工業高校の卒業とはいうものの、会社員時代は「工程管理や営業中心で、技能者ではなかった」から、自分で本格的に旋盤の操作をしだしたのは創業してから、と笑う。
だが、頼まれればなんでもこなした。もともと器用で工夫好きだったから、「もうできたのか」と相手がビックリするぐらい仕事が速くて喜ばれた。それには時間を惜しんで仕事をしたということもあるが、加工しやすいように自分で機械を改造したりという工夫を常にしていたからである。
ホルソーカッターのパイプ部分の仕事が来た時は旋盤を改造してネジ切り専門機械を自分で作ったほどだ。当時出始めのNC旋盤よりネジ切り速度はかなり速かったという。1品1品オーダーの仕事が来た時も、それまで1週間かかっていたといわれたものを1晩で作り、たいそう感謝されたこともあった。
なにをするにもこうした具合だから先方からは仕事が速いと喜ばれ、勢い受注も増えるしで、「最初の5、6年で家を建てた」ほど儲かった。
「サラリーマン時代はとても苦労したんですが、起業してからはお陰で次々にうまく行きました」
「少しでも利益が上がれば設備投資をしてきた」というように、池田の真面目な性格、仕事に対する真摯な姿勢が同社の現在を築いたといえる。
設計者は理想をかけ
加工は俺たちがやる
創業から3、4年後、仕事の中心はステンレス加工になっていた。48年にオーエヌ工業が本社を津山工場に移転、東洋ステンレスがサニタリー工場を津山市に建設するなど、大手ステンレス企業の津山拠点化が進んだこともあり、同社にもそれらの企業からの受注が増えていた。
「他社との差別化を図るため、とにかくきれいなものを作ろうとしました」
仕上がりの美しさは加工精度の高さに通じる。技術力の高さが評価され、仕事はますます増え、出た利益で設備投資をする。こうしたプラスのスパイラルが働き、同社は拡大していった。
昭和54年、社名をそれまでの池田鉄工所から池田精工有限会社に、平成元年に株式会社に組織変更する。社名を「精工」に替えたのは精密加工分野を専門にするという池田の自負でもあった。なかでも東洋ステンレスとの関係が深まっていく。
「東洋ステンレス専用の仕事をする会社を作ってくれ」
そう言われ、昭和58年にサニタリー部を分離独立して、株式会社アイ・エスを設立。
「この装置はほとんどうちが作ったみたいなものですね」
ある年のこと団体視察で金沢のS工業を訪れた時、同社の製品に自社で作った部品が使われているのを見た池田は名刺交換をしながらつい「大口を叩いた」。
「これもあれも皆うちが作った部品ですよ」
当時、池田精工は従業員10数人の小さな会社である。それが従業員1000人超の上場企業相手に「大口を叩いた」のである。一笑に付し、まともに相手にされなくても当然だろう。
ところが、池田の「大口」が効いたのか、それから程なくして突然連絡があり、S工業から「逆視察」されたのには池田もビックリした。工場の仕事ぶりをつぶさに見た同社は即座に仕事を発注。直接取引の開始である。
こうした例はそのほかにもいくつかある。相手が評判を聞きつけて、同社を指名してくるのだ。なかには日本を代表する超大手企業から「岡山に池田精工があるから、あそこに頼めば期日までにやってくれる」と聞き、慌てて飛んできた企業もあった。いずれも相手は上場企業である。
「本来ならこちらから取り引きのお願いに行きたいところばかりでした。本当にありがたいですね」
現在、同社が取り引きしているのはそれぞれの分野で「ピラミッドのトップに位置する企業」。いずれも技術力の高さが評価されてのことだが、その裏には同社が社内で行う厳しい品質管理と、たゆまぬ技術力の向上があったのはいうまでもない。
「手を加えるといいものができるんです。この手間を惜しむか惜しまないかです」
仕事は妥協してはいけない−−。
池田が創業以来貫いてきた姿勢である。だから、どんな技術的な要求にも応えてきたし、応えられると自負もしていた。
「設計者は図面に理想を描いてもらっていいんです。それをきちんと加工するのは自分達がやりますから」
よく池田はこう言う。仕事に対する自信の表れである。
ある時、受注先企業の専務から「うちの仕事は30%にしておけよ」と言われたことがある。先方企業の仕事がどんどん増えていた時だっただけに、真意を測りかねた。だが、次のような言葉を聞いて納得した。
「いまのような時代、いつ仕事が暇になるか分からない。その時にもし池田精工がおかしくなったら、うちがとんでもないことになる。だから1社依存の経営ではなく堅実な経営をしてくれ」
当時、池田精工が作っていた部品は先方企業の主力製品の心臓部に当たる部品だった。人間も企業も拡大期に油断や慢心の心が芽生える。奢ることなく堅実な経営を心がけよと諭されたのだろう。
ピンチがチャンスに
サニタリー充填機の部品加工を中心に伸びてきた同社だが、最近は航空機の油圧装置部品や液晶半導体洗浄装置部品、医薬品製造装置部品など幅広い分野に及んでいる。
なかでも最近注力しているのが、粉末薬品を袋に封入する機械装置の部品加工。ペットボトルなどへの充填とは違い、薄い紙への封入だけにノズルの位置が少しでもずれると紙が破れてしまう。一つ一つの部品にミクロン単位の精度が要求されるが、こういう依頼が来るのも技術力の高さ故のこと。
「ピンチの時ほどチャンスなのだ」
従業員を前に池田はそう説く。
実は某社から「いま下請けを整理している」と打ち明けられたのだ。一瞬、悪い考えが過ぎったが、相手は意外な言葉を口にした。
「不況で仕事も減っているから下請けを整理して、何社かに集中したい。いままで他所に出していた分を池田精工の方で引き受けてくれないか」
そうなんだ。不況だからこそ仕事が増えるということもあるのだ。それもこれも技術力の高さ、品質のよさが評価されていたからだ。こうした期待に恥じないように、より精進していこうではないか。
そう従業員に語る言葉は、自分自身にいい聞かせる言葉でもあった。
文中敬称略
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