栗野的視点(No.786) 2022年12月22日
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47人の赤穂浪士はテロリスト集団
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 12月14日は何の日かご存じだろうか。赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日だが、即座に答えられる人が今どれくらいいるだろうか。世代によってかなりバラツキがあるに違いないが、40代以下の世代では10%いるかどうかではないか。忠臣蔵、大石内蔵助にいたってはもっと少ないのではないか。
12月になると映画やTVで「忠臣蔵」が上映されていたのはもう随分昔の話だ。最後に映画化されたのは1994年。その2年前に池宮彰一郎氏の手によって「47人の刺客」という小説を発表し、それを東宝が高倉健主役で映画化したので観た人もいるだろうが、30年近くも前になるから40代以下の世代が知らなくても不思議ではない。
池宮小説はそれまでの忠君を中心に据えた「忠臣蔵」とは1線を画した作品で、討ち入りを1つのプロジェクトとして捉えた視点が新しかったが、大筋では巷間知られている赤穂浪士の討ち入り物とそう変わらない。
動機が不明な浅野の刃傷事件
それにしても当時、赤穂事件と言われた赤穂浪士の討ち入り事件が「忠臣蔵」に変わり、赤穂浪人は赤穂義士と呼ばれ、47人の刺客は主君の仇討ちをした「忠臣」へと評価が変わっていったが、果たして彼らは「忠臣」であり、その思想、行動は褒められるものなのか。
それらを考える前に赤穂事件が起きる前後のことを時系列に並べてみよう。
1.元禄14年(1701年)3月14日(旧暦)
浅野内匠頭が江戸城松の廊下で吉良上野介に対し刃傷に及ぶ
2.元禄15年(1702年)12月14日(同)
赤穂浪士47人が吉良邸に討ち入り、上野介の首級(しるし)を挙げる
3.元禄16年(1703年)2月4日(同)
赤穂浪士46人に切腹が命じられる
1の刃傷事件の直後、時の将軍綱吉の決断が下され、内匠頭は即日切腹を命じられが、よく分からないのは事件の背景である。内匠頭は「この間の遺恨、覚えたるか」と叫び上野介に斬りかかっているが、「この間の遺恨」が何を指すのかが今に至るまで分かっていない。
江戸城内での刃傷沙汰は固く禁じられており厳罰に処せられることは分かっているにもかかわらず、あえてその禁を犯してまで刃傷沙汰に及ぶにはよくよくのことがあったに違いないとは誰しも思うだろう。
当然、藩士はもとより第3者の中にも聞き及んだ者がいなければならないし、動機に理解を示す声が上がるはず。ところがそれがない。
他人が分からない動機殺人は近頃増えているが、この時代にそれは考えられないし、切腹に当たっても内匠頭自身がそのことについて触れていないのは理解しがたい。
となると、考えられるのはごくごく私的な感情故だったのか。内匠頭は癇癪持ちだったという資料もあり、彼の性格に依存する部分があったということも考えられる。
浅野長矩(ながのり)、後に内匠頭という官位に就いてから内匠頭と称されるが、彼は浅野家3代目藩主である。3代目が身上潰すとはよく言われたものだが、その通りになったが、彼もボンボン城主であり、現代に生きていれば間違いなく会社を倒産させていただろう。
長矩が藩主になったのは満7歳の時で、内匠頭の官職を与えられたのが13歳。当然、彼が藩政を執り行うことなどできるはずもない。父の跡を継ぎ筆頭家老になっていた大石良雄もまだ数えの25歳。勢い藩の実権は末席家老ながら年長者の大野知房が握ることになる。
今風に考えれば先代社長の代から在職し実務を分かっている常務に、社長、専務が頼り切り、常務の言う通りに社業をこなすという構図で、若い自分を支え勉強させてくれているわけだから悪いことではない。問題は社長という肩書から自分に実力があると勘違いし、老臣の言うことに耳を貸さず独断専行に陥ったり、逆に社業を顧みず遊び惚けることだ。そういえば四国の製紙会社でカジノ狂いをし、最終的に会社から追い出された若き会長がいたが、彼はカジノで使った金額が大きかったが、似たような経営者は中小企業に多い。
浅野家の3代目が抱えていた環境、もしかすると幼少期から青年期の成長時に精神的な影響を与えたかもと思われる事件が松の廊下の刃傷事件に陰を落としていたと思えなくもない。
1つは延宝8年(1680年)6月に叔父、内藤忠勝が増上寺で永井尚長に刃傷に及んだ事件。この時、内藤忠勝は切腹し、長矩は謹慎を申し付けられている。内匠頭の職位に就く前である。
2つ目が貞享元年(1684年)、又従兄の稲葉正休が江戸城で堀田正俊に刃傷に及び、その場で斬殺されている。
身内のこうした刃傷沙汰をみれば、すぐにカッとなる性格の家系だったと言えなくもない。
また父母ともに内匠頭の幼少時に亡くなっており、わずか7歳で藩主になっていることからも我が儘放題に育ったボンボンだったことは容易に想像がつく。余人なら耐えられる、あるいはさほど気にしなくて済んだようなことでも精神的負担になり、それが積み重なり一気に噴出したとも言える。
いずれにしろ殿中で刃傷に及んだのはよほどの動機があったと考えられるのが一般的であるし、またそこが明らかでなければ、その後の赤穂藩士の取るべき行動も変わってくる。にもかかわらず筆頭家老の大石内蔵助をはじめとした家老や藩士達が城内でその点を議論した風はない。
(2)に続く
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