ここでちょっとヤナセグループの歴史を振り返ってみよう。
かつて輸入車といえばヤナセといわれるほど同社は長年に渡って輸入車市場に君臨してきた。それを可能にしたのは同社が輸入代理権(インポート権)を握っていたからである。
輸入代理権とはディーラーが自ら輸入先の商品を選び、国内販売価格を決める権利のことであり、例えばフォルクスワーゲン社やダイムラー社が日本市場でゴルフやベンツをある価格で売りたいと思っても、日本国内の販売価格を決めるのは輸入代理権を持つヤナセなのだ。しかも国内で販売する車種の決定権まで持っているから、どんなに海外メーカーが日本でこの車種を売りたいと思っても、ヤナセがうんと言わなければ売ってもらえないわけだ。
この制度自体は日本車メーカーも海外で販売網を築くときなどに利用している制度であり、まだ進出する相手国の市場動向などがよく分からずに販売チャネルづくりを進めるときなどにはネットワークを持っている企業に代理権を与えるのはよく使われる手だし、それで短期間に販売網を作り上げることができる。
こうした長所がある反面、メーカーの考え方が末端販売店に十分行き渡らなかったり、車種の投入や価格決定面などで即座に対応できないというデメリットも指摘されている。
1980年代に入ると日本市場に力を入れだした海外メーカーにとって、自らの戦略で動けない輸入代理店制度が邪魔になりだし、日本法人を設立し直接乗り出すケースが増えだした。
最初に日本法人を設立したのはBMWで、1981年9月にBMWジャパンを設立し、日本市場の攻略に直接乗り出した。以後、86年にダイムラー・ベンツが、90年にはフォルクスワーゲン、そして92年にアウディが日本法人を設立し、ヤナセから輸入代理権を取り上げていった。
以後、ヤナセは坂道を転がり落ちるように業績が悪化していき、ついには銀行管理下に入るのである。
以後ヤナセは辛酸をなめることになるが、ある意味、梁瀬家の支配から外れたことが同社の再建を速めることにもなる。
2000年に入るとヤナセは反転攻勢に打って出、輸入代理権を取り上げられたメーカーと次々にディーラー契約を結びだす。
なかでも周囲を驚かせたのは2003年2月、それまでの仇敵BMWと手を結び、100%子会社のヤナセ・バイエルン・モーターズを設立してBMW車の販売を始めたことだった。
店名をYanase BMWとし、東京、名古屋、三重、大阪の各エリアへと出店を順次広げてきたが、今回の富士モータース(株)の買収で全国5エリアに拠点を作っただけでなく、全国販売網構築をも視野に入れた拠点展開を開始したといえる。
富士モータースがFukuoka BMWの名前で展開していた福岡本店、福岡東支店、福岡西支店、太宰府支店、久留米支店に中古車販売の福岡アプルーブドカー・センター、賀茂アプルーブドカー・センターを加えた7拠点はそのままヤナセに引き継がれ、店名はYanase BMWに変った。
それにしても、なぜ富士モータースは突然とも見える身売りをしたのか。
実際、今回のM&Aの話は非常に極秘裏に進められ(まあ、M&Aの話が大っぴらに進められることはあまりないが)、富士モータースの社員でさえ当日まで知らされてなかったほどで、「売れ行きのいいBMWを扱っている富士モータースがなぜ」という声は多かった。
しかし、同社をよく知る関係者の中には次のように話す者もいる。
「BMWジャパンのノルマが相当厳しく、毎月達成するのは富士モータースといえども大変だったのではないか。達成できなければ代理店の権利を取り上げるとか、福岡エリアに北九州から進出させるというような話を散らつかせられていたようだ。そのため自社登録車が増えていたという話も聞く」
一見好調に見えるディーラーも裏に回ればBMWジャパンのノルマ締め付けが厳しく、内情は端で見るほど楽ではないというわけだ。
同社が福岡東支店を作ったのも販売力強化という側面以上にBMWジャパンの要望に応じざるを得なかった側面もあるようだ。
「すべてBMW仕様なんです。事務所の備品はもちろん、工場内のタイルまでドイツから同じものを買わなければいかんのですから、そりゃディーラーはきついですよ。BMW(ジャパン)だけが儲かる仕組みなんです」
福岡では名が知られているとはいえ、市内中心に7拠点ぐらいしか持たないディーラーでは今後の生き残りは難しいということだろう。
こうした傾向は最近、各分野で顕著になりつつある。
地域密着型のデパートやスーパーでさえ大手ナショナルブランドばかりになり、二極化というより生き残るのは最強・大手のみという一極化傾向である。
ますます中小企業は生き残るのが難しい時代になるつつある。
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