「好事門を出でず、悪事千里を行く」という諺がある。本来の意味は、よい評判はなかなか世間に伝わらないが、悪い評判はあっという間に遠くまで広まるということだが、最近次々に起きる「事件」を考えると、善行はなかなか伝播しないが、悪事はまたたく間に伝播する、という意味に変えたくなる。
そう、悪貨は良貨を駆逐する、ではないが、悪事は伝染力が強いのだ。だから次から次に同じような犯罪が起きる。しかも最近の「事件」は酸いも甘いも噛み分けている(はずの)世代が起こしているのが特徴だ。
そして、そこに今まで犯罪から最も遠い距離にいると思われていたエリート層が加わってきたのだから驚く。それも信じられないようなレベルの「事件」を起こすに至っては開いた口が塞がらないというか我が耳目を疑ってしまう。
現代の不惑年齢は50代後半
なぜなのか。考えられる要因はいくつかあるが、そのうちの一つに人生の長さが変わったことが挙げられる。人生50年と言われた戦国時代から、江戸の泰平期を経て日本人の人生は延び続け、いまや人生90年、100年時代。皆、長生きになった。
長生きになったことで何が変わったのかといえば、それまでの尺度が適用できなくなったことだ。もっとはっきり言えば、それまで絶対年齢だと思っていたのが、相対年齢だったということに気づかされた。
論語に「三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六〇にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こ)えず」というのがある。有名な言葉なので誰しも一度ならず見聞きしたことがあるはず。
実は、ここで言われている年齢は絶対年齢だとずっと思い込んでいた。だが、そう考えると不都合というか現実と合わないことがあまりにも多くなってきた。それは孔子が言っている年齢を絶対年齢だと捉えたことから起こった間違いで、実は相対年齢で考えるべきだと捉え直すとすべてが腑に落ちた。
少し詳しく説明すると、人生70年時代の40歳は7分の4、数値に直すと0.57だが、人生90年の40歳なら9分の4で0.44、100年なら100分の4で0.4とどんどん若くなる。いわゆる8掛け人生、7掛け人生というやつだ。そうなると孔子が言う不惑の年齢を現代の年齢に換算すると50歳、57歳となる。
セクハラ問題で辞任した福田淳一財務事務次官の年齢が59歳、同じくセクハラ問題で更迭された外務省の毛利忠敦ロシア課長が49歳。そして受託収賄容疑で逮捕された文科省科学技術・学術政策局の佐野太局長が58歳。(肩書、年齢はいずれも当時のもの、以下同)
上記3人の官僚はいずれも「アラ不惑」。といっても、あらっ不惑だったのねと言っているわけではないのはお分かりだろう。アラウンド不惑(不惑前後の年齢)を略したわけだが、「あらっ、不惑だったの?」と驚く方がピッタリかも。
ともあれ「天命を知る」年齢には程遠く、まだ不惑に達しようかどうしようかと迷っている年齢であり、精神的に幼い、未発達の人間が多いということだろう。
履き違えの特権意識
年齢が若返っていると言えば聞こえはいいが、実際は精神年齢の低年齢化が社会全般で進んでいるといえる。その顕著な例が財務省の福田淳一事務次官のセクハラ発言だ。
週刊新潮によれば福田淳一事務次官はテレビ朝日の女性記者に対し次のようなセクハラ発言をしている。
「浮気しようね」「胸触っていい?」「手しばっていい?」「手しばられていい?」「エロくないね、洋服」「好きだからキスしたい。好きだから情報を……」
断っておくが、これらは懇(ねんご)ろになった相手との会話(一方的発言)ではない。男女間の関係など一切ない記者に対し、取材中に発せられた言葉なのである。
常識的に考えて異常である。言葉は悪いが「枕営業」をしろと迫っている風にも聞こえる。要は権力を笠に着て相手に迫っているわけで、卑怯極まりない。少なくともエリートと見做される人達が吐く言葉ではないだろう。権力を笠に着なければ女性1人口説けないのかと思ってしまう。
いずれにしろ良識ある大人の言動ではない。外観は大人に見えても、中身(精神構造)は幼稚。成長できないまま歳だけ取った大人が増えている。
さらに酷いのは当時の発言が録音されていたにもかかわらず、その録音音声を聞かされても開き直り、認めない態度だ。
実は逮捕されても犯行を否定し続ける容疑者が多いのも最近の特徴で、福田事務次官の上記態度もまさにそれである。
(2)に続く
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