栗野的視点(No.600) 2017年12月15日
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田舎の「引き算」生活が見直される
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「足し算がいいか、引き算がいいか」と問えば、恐らく多くの人が「足し算」と答えるのではないだろうか。足し算ならモノにしろコトにしろ増えるが、引き算では逆に減っていく。どちらが裕福かと言えば前者に決まっている、と。若い頃は、とまでは言わなくても、比較的最近までそう思っていた。
しかし、世の中が少し変わってきつつあると感じるようになったのはデフレ不況の頃からだろうか。「断捨離」という言葉もそうだろう。余分なものを持たず、必要最小限なものだけを持ち生活する。その方が豊かになれる、という考え方だ。そういえば「フランス人は10着しか服を持たない」という本が数年前ベストセラーになったこともある。
「引き算生活」を求める若者達
周辺を見回してみると「引き算生活」をしている人が案外いることも分かった。例えばK氏はもう10年以上、昼食抜き・糖質制限食事を続けていると言うし、M氏は1日1食生活を、こちらも10年近く続けていると言う。
考えてみれば、日本人が1日3食生活になったのは比較的最近のことだ。明治の初め頃までは1日2食が当たり前だった。それが最近はどうだ。1日3食はいい方で夜食を入れると4食食べる人も多い。しかも1食の量が多い。1食抜くぐらいがちょうどいいと言っても聞きはしない。これでは太るのが当たり前だと思うが。
「引き算」生活なんて真っ平ゴメン。便利な都会で快適な生活を続けたいと考える人がいる一方で、地方に移住する若者もいる。数はそう多くはないとはいえ、彼らが「足し算」ではなく「引き算」生活に価値を見出だしたのは間違いないし、そういう生活を支持する人達が若い人達の間に生まれてきたのは悪いことではない。
経済が右肩上がりの時代に生きてきた中高年と違い、彼らは右肩上がりの経済を体験も実感もしていない。それどころか逆に右肩下がり、あるいは現状維持の経済の中で生きてきているから、将来に対しての投資という考えがなくても当然だろう。
むしろ将来への投資=消費と捉え、資金は使わず将来に備えて貯蓄に回すというのは堅実な考え方である。
これでは経済が活性化しないと批判されるが果たしてそうか。そもそもの前提が違うわけで、資本主義の歴史を振り返ってみても「消費は美徳」と言われ出したのはごく最近かつ短期間だ。むしろ必要生産・必要消費の時代の方が長いから、今の若者の考え方の方が正統派であり、堅実と言えるだろう。
消費行動に向かわないから経済活動をしていないわけでも、経済に貢献していないわけでもない。要は過剰生産、作り過ぎこそが問題だ。作り過ぎるから余ったモノをどこかで捌かないといけない。
まず自国の消費者に今まで以上にモノを買わせようとする。といっても同じモノを2つも3つも買わない。それではモノが余って商品在庫になるから、同じモノでも必要以上に買わせて在庫を減らしたい。
そこで考え出されたのが「消費は美徳」という考えだ。TVも、電話も、車も、一家に1台ではなく複数台持つ時代。それが豊かさの象徴である。1つモノを大事に使い続けるのではなく、その時代に合ったものにどんどん買い換えていくことこそ新しい。
そんな宣伝文句に躍らされどんどん買い換えていく。それでも生産量の方が上回れば今度は海外まで出かけて行ってモノを売る。かくして世界中がモノに埋もれ、私達はモノに囲まれた(埋もれた)生活を余儀なくされている。それが文化であり、幸せなのだと思い込まされて。
でも、それっておかしくないですか。そう思い出した若者がモノに溢れた都会を離れ、地方に移住しだしている。
ただ、繰り返しになるが、その数はまだ多くはないし、それがトレンドになることはないだろう。それでも、消費文明とは違う価値観が少しずつだが支持されているのは事実だ。
案外便利な田舎だった
さて、若者でもない私の場合は「終活?」と友人に言われたが、当たらずと言えども遠からずというところだろう。田舎の家にあるものも処分しなければならない。そのための帰省という面はたしかにある。だが逆に愛着が強くなってきた。
高齢化が進んでいる過疎の田舎とは言え、私の実家がある場所は案外「都会(?)」である。奈良から会いに来てくれた友人も驚いていたが、我が家から50mの距離にコンビニがある。これだけでもイメージが随分変わると思われるが、その向かいには総菜・定食屋、郵便局があり、隣には地方銀行の支店まである。
(2)に続く
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