人生の一大セレモニーと言えば結婚式と葬儀だろう。かつてこの二大セレモニーは似通っていた、規模の面でも金額の面でも。だが、この両セレモニーは共に縮小傾向にある。結婚式は若者人口の減少で数量的に。一方、葬儀は件数は増えているが、規模が小さくなっている。以前のように大人数が自宅や葬祭場に参列して行う形から、親しい身内や家族だけでこじんまりと行う形態が増えている。
呼び方は「家族葬」「リビング葬」「密葬」「1日葬」「直葬」など様々だが、共通しているのは参加人数の少なさと、比較的少ない費用で実施できる点。ただし、費用的には必ずしも安くできるわけではないので、家族葬=安上がりと考えるのは間違いだろう。
ところで結婚式と葬儀の決定的な違いは何だろうか。違いは色々あるが、大きく違うのは前者は準備期間があるが、後者にはない(期間が短い)ということだ。そのため葬儀はほとんど葬儀社の言いなり、出し値で決まるところがある。結婚式のように事前に時間をかけて式場を見て回り、見積もりを取り、決めるという余裕がない。バタバタと半日から1日の間に何もかも決めなければならないからだ。
私自身、15年前に妻の葬儀を行った時はもうてんてこ舞いだった。それまでに父の葬儀の経験があるとはいえ、父の時は田舎の実家で行ったから、親戚連中や地域の人達が皆段取りをし、手分けして手伝ってくれたので喪主は何もしなくてよかった。
ところが妻の場合は葬儀社の手配(亡くなった直後に探した)から、関西方面から参列する親族達の宿泊場所まで手配しなければならず、とにかく大変で、それこそ悲しみに浸る暇もなかった。
そこで今回は昨今増えている小規模葬について、私自身の経験を交えながら考えてみたい。
直葬も増える傾向に
母が亡くなったのは今春3月下旬だが、それまではグループホームで暮らしていた。それが医師から、いつ急変してもおかしくない状態だから入院した方がいい、と告げられたのが2月半ば。
入院して3日目に担当医師から、投薬効果(腎不全)が出ない、もうすることはない、点滴も本人が苦しいだけだから外そう、後は看取りだけ、と告げられた。残された時間は数日以内、いまの内に会わせておきたい人がいれば会わせておくようにとまで言われたが、それから丸5週間、母はベッドにこそ寝かせられていたものの、普通に会話ができ、食事も亡くなる3日前までできていた。
私は妻の時の経験から入院後約1週間と考えていたが、1週間を過ぎても母の容態は変わらない。食事もしっかりするし、会話も普通にできていた。この段階では医師の判断ミスを疑ったほどで、転院を検討したぐらいだ。それでも冷静に考えれば、回復して元の生活に戻れるわけはない。とすれば、残りの時間を一緒にどう過ごすかしかないと考え、毎日午後2時頃から6時過ぎまで病室で過ごし、最期は私が見守る中、突然呼吸が止まった。
医師から見放されながらも4週間以上も話が普通にできる時間的余裕があったことがよかった。助走期間というか、葬儀について考えられたからだ。合間を縫ってパートナーと2人で葬儀社の見積もりを取り寄せ、何か所かには足も運んで具体的なことを尋ね、そこのスタッフと話もした。
そうすることで違いも見えてき、組織の大小ではなく、最後は人だなと感じた。「おくりびと」のようなことを期待するのは無理としても、ビジネスと考えている人、死者に敬意を持ち、送り出そうとしてくれる人など、それこそ人も色々だった。私達2人に共通していたのは「あまり高すぎるのは問題外だが、少し費用が高くても親切で感じがいいところにしたい。葬儀が終わって頼まない方がよかったと感じると後々まで後悔する」という認識だった。
福岡では直葬にし、生まれ故郷の岡山県の実家に帰って本葬をしようと考えていたから、福岡で調べたのは直葬をしてくれるところだった。ネットで「直葬」というキーワードを入れると結構出てくる。最近は大きな葬儀場でも直葬をしていることが分かったが、葬儀を二度することになるため直葬にはできるだけ費用をかけたくなかった。
いまさら説明するまでもないだろうが、直葬とは亡くなった後、葬儀をせず、直接火葬場に行き火葬することだが、葬儀社に尋ねると最近は直葬も少しずつ増えているとのことで、直葬にしたいと言っても丁寧に応対してくれるところが多かった。もちろん中にはそうでないところもあったが。
そういう意味でも、検討する時間的余裕があったのはとてもよかったし、なにより故人の送り方について考えることができたのはよかった。
その間にパートナーは母との思い出を映像にし、皆が偲べるようにしてくれた。とても感謝している。私一人ではそんなことまで気が回らなかったし、そんなことを考えもしなかっただろう。
(2)に続く
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