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曖昧になっていく内界と外界、境界の関係について(3)
〜境界の曖昧さが日本社会の長所


境界の曖昧さが日本社会の長所

 日本社会は欧米社会と違い明確な境界がない社会である。境界が曖昧というか、内界と外界の境が緩やかで、両者の間に共有地帯、グレーゾーンが存在している。それは不利なことでも欠点でもない。むしろ利点なのだが、明治以降の西欧化、特に家づくり、街づくりに欧米流の手法が取り入れられ、それが主流になっていくに従って、日本的な「曖昧さ」はマイナス要素のように捉えられ排除されていった。
 その結果、造られたのは人によそよそしい街である。コンクリートで仕切られ、直線的な道路は一見効率的に見えるが、それは運搬、移動という観点からは効率的だが、人の交流という観点から見ればいかにも非効率、味気ない通路にしか過ぎない。

 それ以前の日本の道は西欧的な「広場」と「通り」を併せ持った場所だった。道は個々の家や住人を隔てるものではなく、家(内界)の延長であり、内界と外界が交流する場所(エリア)だった。
 夏には家の前の道に縁台を出して涼み、そこで燐家の主人と将棋を指したり、スイカを食べるなどという光景は昭和30年代まではごく普通に見られたし、庭帚で自宅だけでなく自宅前や燐家前の道まで掃除していた。
 つまり道は西欧的に言うパブリックな通りではなく、家(内界)の延長であり、他(外界)との共有地帯、内界でも外界でもないグレーゾーンなのだ。
 といって、余所者が入り込んで同じように道を使えるかといえば、それは許されない。共有地帯といっても西欧で言うパブリックエリアではない。広く一般に使用が開放されているわけではなく、そこに住む住民達、そこを日常的に使っている人達の間、コミュニティーの住人達に開放された共有地であり、その境は曖昧だ。
 内界と外界の境界が曖昧なだけでなく、使用者の規定も曖昧で、そこの住人でなくても住人の友達など、地域の多数が顔見知りの人間はコミュニティーの準構成員と見なされ受け入れられる。

 この曖昧さが日本社会の良さであると同時に難しさでもある。今風に言えばルールや概念が明文化されていないわけで、それがために余所者には入りづらい(受け入れられにくい)ところがあり、欧米的な文化の広がりとともに旧弊と見なして嫌う人が増えていったのも事実だ。

 境界の曖昧さを最もよく表しているのは、現代建築で建てられた家ではほとんど見ることが出来なくなった「襖(ふすま)」である。襖は部屋と部屋を分ける境界だが、簡単に取り外しが出来る。普段は襖を立てて小部屋として使用し、大人数が集まる時はそれぞれの部屋を仕切っていた襖(境界)を取り外して1つの大広間として使用することができる。

 こうした日本家屋の長所たる曖昧な境界が減少し、西欧的なドアで仕切られた部屋が増えていくにつれ、人々の心に寛容ではなく、内界と外界を明確に分ける境界が設けられていった。その行き着く先が内の世界を持ち歩く内界の移動であり、内界の拡大である
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